第1章 北海道アイヌ協会函館支部 加藤敬人支部長インタビュー

 

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 下記にテープ起こし原稿を掲載します。話の中で省略された言葉を多少補足してあります。

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Q. 北海道アイヌ協会函館支部に尽力されたと聞いていますが、そこに至る経緯を教えてください。

加藤敬人氏
私は函館に来る前は小樽に住んでいました。小樽に支部はなかったんですけども、札幌の本部といろいろ話はしていたんです。 それでこちらに引っ越しするということになりまして、函館支部に入会しよう、アイヌの活動を始めようと思って、それで設立という形になりました。
私自身は、生まれは札幌なんです。母がアイヌです。父は和人なんですね。3歳の時に両親が離婚しまして、私は3歳から母の実家である日高門別、イクチセという所に移り、そこで育ちました。3歳から12歳までです。中学生になりまして、また母と離れました。母は札幌で一人で働いて、私に仕送りをしてくれました。
私はハーフですので、顔も見た目アイヌ人ぽくなくて、和人の中に溶け込んで生活できたんです。
でも、体の中にはやっぱりじいちゃん、ばあちゃんのアイヌプリ(アイヌ人としての生き方)といいますか、そういうものが染みついていたと思います。
その後、大学にいき、就職しましたが、アイヌ人ということを隠して生きていました。それから北海道に帰ってきて、小樽で商売を始めました。私が43歳のときです。15年前になります。
ロシアとの商売をしながら小樽にいました。居酒屋なんかも経営していました。
そんな中、2008年にアイヌが先住民族であるという国会決議を見ました、先住民族であることを認める決議ですね。それを見まして、自分のアイヌの血が騒ぎ出しまして、アイヌの活動をしていこうと思いました。小樽に支部はなかったので活動はしませんでした。函館に出てきて本格的に始めた、という実情です。

Q 函館での活動はどういうところから着手されたのでしょうか。

加藤敬人氏
いろんなアイヌ文化というものがあるんですけども、函館でアイヌ民族を考えたときに、一つの疑問が生まれたんですよ。本当に函館にアイヌはいなかったのか。文化の前に考えるべき問題です。アイヌ語でシャモといいますけれど、本当にシャモ地がなかったのか、いろいろ調べました。北大の研研究所も国の文部科学省も、研究書ではゼロですね。明治以降もゼロ、その前もゼロ。公式文書ではそうなっています。
しかし、調べていくと、いかんではないかと。いろんな文書にも出てくるんですけど、例えば函館の元町、今の八幡様のところに官軍が攻めてくる。幕府の医療所があったところの医師が木に吊された。それを助けたのが「土人」であった、という記述が残っています。
それから今の住吉町にアイヌがいたんではないか。その関係で函館のアイヌ学校がやちがしまに移っていったのではないか、縁故で土地を求めていったのではないか。
いろんなことが事実として出てきましてね、調べていくと、アイヌ人がいた形跡が多いんですよ。
ただ明治以降、いろんな迫害とか差別とかありまして、アイヌ自身がアイヌということを言わなくなった。服装も変われば、日本語しかできない、アイヌの着物も着ない、そういうふうにしてアイヌを主張しない形になっていったんじゃないかなと思います。
僕が函館で何をしたかというと、そういうふうにアイヌの掘り起こしから始めたんです。現代まで函館に住み続けたアイヌはいなかったのか、明治以降ですね。戦後はいるんです。戦後は函館が観光地なんで、おみやげ品が観光地で売れるということで、旭川とか白老とかから函館に来て住み続けた人がいるんです。それ以前にはいなかったのか。
いま函館市というのは合併して大きくなりましたけど、元々は湯ノ川までが函館だったんですね。湯ノ川に明治以降、例えば渡邊熊四郎という金森倉庫を造った財界人がいるんですけど、その方の別荘が湯ノ川にできたとき、その隣にアイヌのチセとプーが、チセというのは家、プーというのは食料庫ですが、それが建っていました。写真がまだあります。
その湯ノ川を越えて、目崎という所まで行きますね。文献に、昭和41年、銭亀沢村といいましたが、ここに15家族、39名のアイヌがいた。それで戦後生活圏ができているんですよ。
いろいろ調べていくと、アイヌの掘り起こしから始めたものが、アイヌ文化が残れた一つの理由がわかったんですね。なぜ函館に北方民族資料館があるのか、博物館というおそらく日本で一番アイヌの資料・財産を持っている自治体になるんじゃないかと。やっぱりそこには函館が、明治以降一番最初に、江戸幕府時代に奉行所があって、その後薩長政府によって開拓庁ができる前に中心となる省庁があった。ここから奥地に向かって出て行った。攻めてきた。そういう中で博物館になったり寄付されたりして集まってきたのでしょう。
馬場コレクションというものがあります。馬場修という医師でもありアイヌ資料の収集家でもあった人ですが、この方が近隣のアイヌからも物を買っているんですね。買って収集している。墓をあばいて収集したということは一度もない人です。考古学が好きでいろんなところを歩いたけれど、きちんと出所を確認したものを収集している。この人も函館出身者なんですね。そういうこともここに文化が根付いた一つの理由です。
ほかに児玉コレクションというものがあるんですけれど、児玉コレクションは、函館に来た眼科医の息子さんが北大の教授になって、いろんな収集をした。それが児玉コレクションとして残っているんですね。そういう人も函館から出ている。不思議な縁ですね。
そういう面ではいろんな文化的なモノが函館に集まっています。私がそれを掘り起こし、どうやってつなげていけたかというと、やはり文献・資料が函館図書館に残っている。そういうものが合わさって、函館にはアイヌがいたんだなということがわかりました。
アイヌというのが文字を持たない民族でしたので、アイヌ民族側の文献として残っていないんです。昔からそうですね。松前藩が残した記録ということで文献は残っている。それ以外、アイヌは資料を残しようがなかった。ユーカラとか口承文芸という形で多少は残ってきましたけど、それ以外には残っていません。

Q 加藤さんご自身が「アイヌの血が騒いだ」とおっしゃいましたけど、どういうところにそう感じられたのでしょうか。

加藤敬人氏
僕が子供の頃育ったコタンというのは、貧しくて、アイヌの本当の貧しい集落でしたね。やっと電気が通ったという所でしたから。そんな中で、じいさんばあさんが、いろんな所で私を抱えてアイヌの話をしてくれたり、命の尊さ、食するものの尊さを教えてくれたりしました。そういう生活ですよね、自然のサイクルみたいな生活を10年近くもやっていると、そういう生活というものが自然と中に入るんじゃないかと思います。
(鳥のさばき方について)
子供ころは気持ち悪いですよね。いやでいやで。それを強制的にさせられるわけです、じいに。そのときに命をもらって、それを食べる。それを感謝する。ありがたさ、それから尊さというのは、鳥を1羽しめることによって、いっぺんに体に染みつくんです。残酷さとかもね。そういうふうにしてものを食べているんだということが、今の歳になっても、スーパーに買い物に行ってもわかるんですよ、その前が。そういうものを食べているんだなと。そういうことを教えてくれたありがたさというものはありますよね。それから自然のものを食べる。
昭和30年前半、じいの家にテレビが来たのが昭和39(1964)年。東京オリンピックのとき。家はまだ裕福なほうで、他はまだテレビがないわけですよ。みんな見に来る。日本全国そうだったのかもしれないけど。テレビを付けるために電気を引くんです。まだランプの家もありました。家の親戚だったですけど。

Q.加藤さんが考えられるアイヌ文化のすばらしい点を挙げていただけますか。

加藤敬人氏
アイヌはやさしいんですよ。アイヌというのは「人間」という意味ですから、本当に人間の心を持っていたんだなということが、歴史的資料に出てくるんです。分かり合える、分かち合う、それがお互い集落の連中ともそうですけど、自然とも分かち合える。決して多くのものを取らない。再生していくためのものを残していく、という文化を何百年も続けてきた民族ですから、それが残っているんですね。それはものすごい誇りとして、思ってますね。僕もそうありたいと。
明治以降、北海道にいろんな入植者が入って来ました。そう簡単に入植できたのか。あまりこれは語られていないと思いますが、想像してもらったらいいと思うのですが、未開拓の土地というのは、どういう所ですか。道路1本ないところです。テレビで見るアマゾンのジャングルのような状態です。北海道の針葉樹林に覆われている。開拓に入って、木を切って、農地を開墾して生きていく。どんな格好できたんだろうと。木綿着と、ちょっとした鍬と、植えるための作物を持ってきた連中がほとんどです。
最初来た人たちはみな逃げ帰っているんです。そこで生まれた子供は捨てていった。それをアイヌが育てたんです。
一部の和人はアイヌに助けを求めてきました。どうやって冬を越すか。冬の越し方を教わった和人は、ずっと住み続けることができたんです。

加藤敬人氏

Q.アイヌの人たちはどんな信仰を持っていますか

加藤敬人氏
信仰は感謝から生まれてきているのだと思います。感謝というのは、自然に対しての恵み、それを感謝し、神様「カムイ」に感謝する。その感謝するのは、何で感謝するんだと。それは自然の驚異とか自然の猛威、そういった怖さ、恐怖心から神様に恵みをもらってありがとう、と感謝します。それを同じように恵んでいただくために、こういうおみやげをもたせて神の元に帰します。だから、あまり自然は暴れないように御願いします、寒さもほどほどにしてください。そういうものが儀式になっていったんだなと、僕は感じるんですね。全部それはつながっていると思うんです。

Q かつての生活習慣、生活環境がほとんど維持されていない現代社会で、アイヌ文化の継承発展というのはたいへんな苦労があると思います。

加藤敬人氏
並大抵ではないと思いますよ。僕の経験上、和人の血が半分入っていますから、そこから見るアイヌ民族、アイヌ文化というのは、やはり一滴の血がちょっとでも入っているんであれば、まずアイヌ文化を継承する義務がある。そう思います。日本には絶滅した動物はたくさんいるわけです。例えば、北海道ではエゾオオカミ。エゾシカを襲うから、和人がエオゾオオカミを駆逐してしまった。動物のようになりたくない。アイヌはそうなりそうだったんです。
アイヌ民族は残っていかなければならない。それには何が必要だろう。見た目、和人っぽくなっても、何でアイヌということを証明するのですか。それは文化を継承していくということです。
もっと大事なのは、言葉を残していくこと。アイヌ語を残す。少しでもアイヌ語を話す。できれば、日本の第二母国語くらいにしたいですよ。そこまでやりたいなという大きな夢があります。

Q アイヌ民族の文化、言葉の継承発展の課題として、どんなことが挙げられますか。

加藤敬人氏
その時代の考え方というものがあると思います。それはどういうことかというと、例えば昭和の初期、戦後間もない頃、大正、明治。アイヌ文化自体、言葉もそうですけど、低俗なんだと、低俗な民族なんだと、日本人はずっと教えられてきたんです。国民学校とかいろんな学校で。
だから、当然アイヌ語もそういう風潮があったので、しゃべりたくない、話したくない、ということが戦後までずっと続いているわけです。
戦後まもない頃というのは、しゃべりたがらなかったです。家の母親もですね、私には「いっさい使っちゃダメ」と。家のばあさんはしゃべれたんです。そういうのも「ダメ」と。「せっかくあんたは和人みたいな顔して生まれてきたんだから、アイヌとして生きる必要はない」、と母に言われました。そこまで言うほど、家の母にしても葛藤があったと思います。

 日本の教育というのは、今でこそアイヌ振興財団というのがある。アイヌ文化振興法というのが1997年にできているんです。アイヌ文化というものはこういうものですと、副読本をもって教育してくださいと、学校にお願いしているんです。
でも、それは学校の自由なんですね。日本の教科書に出てくるのは、アイヌ民族がいましたよ、シャクシャインの乱がありましたよ、と。「乱」ですね、これは和人的な見方です。 賊軍みたいな形で表現しているわけです。その裏に何があったとか、クナシリミナシの戦いがありましたとか、その裏に何があったかは、ぜんぜん説明されていないわけです。
そこになんとなくアイヌがいましたよ、という教育をずっと続けてきたわけです。
だから、日本人の多くが知らないのが当たり前なんですよ。
でも、やっとアイヌが先住民族ですよと、初めて衆参両院議員が一致して認めてくれたということは、画期的です。2008年、たかだか何年前ですか。5年前ですよ。
だから、そこからスタートしているみたいですね。1997年のアイヌ文化振興法という法律は、あくまでもアイヌ文化のことに関してはいろいろやってくださいよ、と。
それ以外のアイヌの権利とか回復するための法律というのはできていないわけです。我々はそこを求めているんです。アイヌ民族法といいますか。アイヌ民族法というものができて、日本政府に謝罪してもらって、そこから全部スタートです。そこの入り口までも来ていない。
いろんなアイヌ人がいると思いますけど、まずは自ら発信して、アイヌ民族はここにありきと主張していく。それが大事だと思います。
ただ、それがアイヌだけでできるのか。アイヌ民族だけでそれができるのか。そういう時代ではなくなっていると思いますね。やはり和人の力を借りて、共存共栄を図って、我々は日本の良き国民として、日本の1民族として、国家を担う1民族として働く心をもってやっていこうと、文化を発信していけたらいいなと思いますね。

Q 今日は貴重なお話をありがとうございました。

(聴き手 DAYO本舗 宮原光彦)

 

<資料 2008年の国会決議>
「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議案」(第一六九回国会、決議第一号)

 昨年九月、国連において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、我が国も賛成する中で採択された。これはアイヌ民族の長年の悲願を映したものであり、同時に、その趣旨を体して具体的な行動をとることが、国連人権条約監視機関から我が国に求められている。
 我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。
 全ての先住民族が、名誉と尊厳を保持し、その文化と誇りを次世代に継承していくことは、国際社会の潮流であり、また、こうした国際的な価値観を共有することは、我が国が二十一世紀の国際社会をリードしていくためにも不可欠である。
特に、本年七月に、環境サミットとも言われるG8サミットが、自然との共生を根幹とするアイヌ民族先住の地、北海道で開催されることは、誠に意義深い。
 政府は、これを機に次の施策を早急に講じるべきである。 一 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認めること。 二 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことを機に、同宣言における関連条項を参照しつつ、高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組むこと。
右決議する。