第2章 修行の喜び

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下記にテープ起こし原稿を掲載します。話の中で省略された言葉を多少補足してあります。

1.修行の苦労と喜び

Q 先生はある雑誌のインタビューの中で、「道を究めることの難しさ、苦しさ、そして楽しさを見出したとき、思いがけない発見があります」と言われています。
先生は15歳で入隊され、終戦で復員された後、陶芸家の修行に入られています。
修行生活は長かったと思います。苦しさは当然あったと思いますが、苦しいだけではなく楽しいこともあったと思います。喜びとかやりがいとか、どういうときにお感じになったのかお聞かせいただけますか。

井上萬二
苦しさは、やはり修行だからなんですね。修練も修行も同じ意味ですけど、やはり修行というのは、技を学ぶためには年限、制限がないでしょう。今でも我々には制限がない、これでいいということはありえない仕事ですから。まだどういうふうに発想して、いいアイデアで創り出そうかということを考えているんです。終生これでいいということはありえない、特に修行の段階では。学校教育の中では、ある年限を終えたら、ある程度の成績を取ったら、悪くても1年1年修行は終わるけど、こういうで伝統工芸を学ぶには、どこまでしたらいいのか途方にくれる時代なんですね。
それと終戦後というのは、今日のような社会環境的にもいい時代ではなかった。特に、いくら働いても飯が食えない時代に無給でこういうものに励むというのは、よほどの精神的な面が必要です。
それから土地の伝統というものがある。有田には400年の伝統がある。有田はもうすぐ陶磁器発祥400年になるんですけど、その伝統の中に、先人たちが受け継いだ技というのが脈々と流れている。それを巧みに正しく受け継ぐというのは人間不可能ですけど、それに近いくらいの技を学ばないといけない伝統のシステムというものがある。
そういうことを学ぶうちには、いつまで学んだらいいのかという苦しさもあるし、将来の明るみもわからない。
だけど、明るみというのは、ある域に到達したときが明るみなんですね。
それから給与。無給で働いていて、給与を受けるようになった段階で、1円でも1銭でも給与を受けたということは、最高の喜びなんですよ。
それはその当時の浅はかな考えなんですけど、作品も同じように作るだけは作っても、社会の人が認めて1点でも買ってくれたら、それと同じような喜びですね。
それと同時に、修行しているときに見える明るみ、楽しさというのがある。人類が焼き物を作り始めてから、より美しくみせるための加飾がある。有田には柿右衛門のように赤絵の技法があるし、伝統的に染付けの技法もある。いろいろ加飾して美を創るのが焼き物の世界なんですね。
作品を作っているとき、これでもかこれでもかといって修練を積んでいるときに、究極の形を生み出したときには、もう文様は必要ないのじゃないか、と思えます。そういうようなものができたときに明るみが出てくるんです。
でも、そういうものを作りだす技術は学んでも、創造するセンスがないとダメです。総合芸術品というのは、各分担分担で、ある人の総合的なスタイルで総合芸術品として生まれますけど、個人の作家というのは、やはりセンスがなくてはいけない。技術もなくてはいけない。技術はあっても、職人的な技術はあっても、創造するセンスがないとダメです。センスと技術と、その人の人間性というものが現れて、その人の作品というものが生み出されてくるものです。
そのときにやはり楽しみというものが生まれてくるものです。これはやってみないとわからない、その人だけの楽しさなんですね。
それから技術技術というけれど、技術を磨けば、あらゆるものを創造するセンスが生まれてくるんです。何の技でも、究極の技を身につけたら、おもしろいセンスが生まれてくるんですね。
工芸の世界では、センスが先か、テクニックが先か、ということになったら、やはりテクニックがないと工芸というものは生まれてこない。特に焼き物というものは、どんなにいい釉薬を調合して表現しようかとか、絵をつけようかとしても、まず形を生み出すのが原点でしょう。特に、磁器の場合は。加飾というものがあるけれど、陶器の世界は加飾がないんですから、形が美です。
そういうときに苦労して、これでもか、これでもかと長い間修練を積んでいるときに明るみが見出せるのは、「ああ自分だけしか生み出せない形というものが生まれたな」、というときに生み出される楽しさ。
それから他の分野の工芸というものは、作りだして終わったときが美でしょ。焼き物は焼かなくてはいけない。焼いてはじめて、焼き物の美しさがわかる。焼いて窯から見出すその瞬間というのは、最高の喜びなんです。その喜びの中にも、まだよくなるだろうと考える。思うようにならなかったら、次作の念燃えて、また挑戦する。そういう喜びというのは、挑戦すれば挑戦すれば挑戦するほど、その喜びというものが出てくるものです。
それに取り組む究極の技と追求する探究心です。そういうときに楽しみが出てくるんじゃないかと思うんです。自分はそういう気持ちだったんですね。