第2章 厳しい修行から得たもの

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下記にテープ起こし原稿を掲載します。話の中で省略された言葉を多少補足してあります。

3.深川製磁で学んだこと

 深川製磁では、2代目社長が厳しい社長で、なかなか大変だったですけど、私はその人のおかげで今日があると思っています。偉大な社長でした。物でも何でも、土でもちょっと落ちていると、「これで盃がいくらできるね」と。それくらい厳しいお方でした。そういう目の肥えた人の前で仕事をするということは、私たちは命がけで仕事を覚えていかななければなりませんでした。

 社長が「煎茶をつくってみらんか」と言って、作らされたことがあります。できるだけ薄くって言われたので、腰からフチまで1ミリあるかないか、0.5ミリくらいに薄く作って、たまたま30個ばかり作ったんですが、全部取れたわけです。あまりにも薄すぎて、外に描いた絵が、内に描いたように出てしまったわけです。営業所は、こういうもの売れない」よ社長に言うたらしいですが、「なんというばかげたこうと言うか。こういうものを作れる職人が、どこにおるか」と言って、さらにそのときに、「こういう職人は深川製磁始まって以来の細工人。こういう細工人はもう育たんぞ」と、社長がほめていらしたそうです。滅多にほめない人がほめたんです。
それからがものすごく厳しかったですね、一段と。短い期間でしたけど、脳溢血で倒れて亡くなられました。その3,4年というのがしっかり本格的に、直々に社長が見て評価して話するくらいでしたから、私はごまかしがきかなかったですけど、おかげでこういう仕事が自分なりにできるようになりました。

Q 今まで厳しさとか苦しさのお話をお聞きしたのですが、一方で楽しさとか喜びもあるのではないかと思います。その点について。

 ろくろで一流になるためには、極端な言い方ですが、「ろくろバカ」にならなければ。「職人バカにならんと本物はできませんよ」と。いいかげんにして、ただ辛抱したから一人前になれると思うのは大間違い、と私は言うんです。言葉は悪いけど、「ろくろバカになれ」と。

Q 修行時代にうれしかったことは。

村島昭文
うれしかったことはまずないですけど、私の親父が荷姿といって、ワラで焼き物を包んで送る仕事をしていました。親父は香蘭社に勤めていましたけど、「おまえが有田で飯ば食いたかなら、ろくろか絵描きかどっちか覚えんと、有田じゃ飯ば食えんぞ」と言うもんですから。絵も嫌いじゃなかったけど、物を作るほうが好きだったからろくろの道に入りました。入りはしたけど、苦労の連続です、いまだに。
喜びというのはですね、宮中の器を、厳しかったですけど、「出来上がって納まったよ」って言っていただいたときの言葉が最高の喜びなんです。全国回っても、皇室が食卓でお使いになる食器を作っている人はいないですから。全国でも、私一人と思いますよ。たまたま深川製磁が宮内庁御用達の窯元ですからね。

 宮内庁からきた注文は、来るものは全部私がつくらなければならなかった。そのへんが大変でしたけど。苦しみはあっても、陛下の器を作ることができるというのは、たいへんな喜びでした。
周りにお世話になったから、私もそれだけ勉強できて、こういった自分の商品も、お客さんに喜んでもらえるような仕事ができるようになったのは、社長のおかげだし、深川製磁のおかげです。

 宮内庁の仕事は途絶えとったんですが、私が深川製磁に入ってから、宮内庁から注文が来るようになって、最初は200個くらいの注文だったですが、一年一年個数が増えて、会社を退職する時分になった頃は2000も2500もつくらにゃならんようになりました。晩餐会にお呼びになるでしょ。帰りには、それがおみやげとしてあげられるもんですから、毎年作らなければなりませんでした。一年の間、暇を見て作っていかないと間に合わなくなります。