江戸の恋     上山明彦

職人の恋(3)


 前回からの続きです。親方の下で職人の修行を積んでいる身分の男としては、好きな相手に思いを打ち明けることさえも簡単なことではありません。親方や周りからの非難、相手の迷惑、相手の周りからの非難を覚悟しなければなりません。親方から放り出されるかもしれません。さあ、三治はその思いをどうするのでしょうか。

 仕事場は、長屋の二部屋を借りている。片方の部屋は土間から竈(かまど)を取り払い、仕事ができる空間となっている。いつもそこで三治は茣蓙(ござ)を敷いて働いている。引き戸は開けっ放しだから、外の様子はよくわかる。そろそろ来るかな、と三治が耳をそばだてていると、木戸のほうで、ひさしぶりだね、きれいになったわね、という長屋のおかみさんたちの声が聞こえてきた。お佳代がきたんだな、と思った。何気ないふりをしながら、三治は手仕事を続けた。やがて下駄の音が近づいてきた。
 「おじゃまいたします」
 そういってお佳代が入ってきた。三治が顔を向けると、お佳代も視線を合わせ、お辞儀をした。三治も、小さく頷くようにして挨拶を返した。
 「ご苦労様。ま、上がって、お茶でも飲んでいっぷくしな」
と、親方が座布団を部屋の隅から持ち出して置いた。
 「ありがとうございます」
と、お佳代は下駄を脱いで畳に上がった。座布団には座らず、その横で正座した。目の前には卓袱台があり、親方が向こう側に座っている。
 「親方、おいら勘三郎商店まで行ってきます」
と、三治が土間から声をかけた。
 「おう、何か届け物か」
 「へえ、先月頼まれた品ができましたんで、届けてきます」
 「おおそうだったな。でもあれは急ぎじゃなかったぞ。明日でもいいんじゃねえか。お佳代ちゃんも来てることだし、明日にしたらどうでえ」
 そういうと親方はにやっと笑った。
 「親方、早くこれを片づけて、明日からは神社の売り物にかかりたいんで」
 「ああ、わかった。行ってきな。道草食わず、さっさとけえってくるんだぞ」
 「わかりました。行ってきます」
 そういうと、三治は飛び出して行った。
 半時(一時間)も経った頃、三治は隣町の神社の境内にいた。走って行って届け物を渡すと、また走って戻り、途中の神社で休んでいた。これで少し時間を稼ぐことができた。この計画は、このひと月考え抜いた末、思い付いたものだ。お佳代が店に帰る途中、必ずこの神社の前を通る。ここなら誰にも見られずに簪(かんざし)を渡すことができる。問題は、自分がどうやって仕事場を抜ける手を考えるかだ。厠(かわや)へ行くという手も考えたが、それでは時間がかかりすぎて、親方に怪しまれてしまう。あれこれ考えて思い付いたのが、届け物をするために出かけ、駆け足で戻ってきて時間を稼ぎという手だった。
 しばらく待っていると、遠くに風呂敷を抱えた娘の姿が見えてきた。お佳代だ。間違いない。心臓が激しく躍動し、胸が苦しくなった。急に喉が乾いてきた。落ち着け、落ち着け。簪を渡すだけだ。それが澄んだらすぐに帰る。それだけだ。三治は必死に心を落ち着かせようとした。そうする間にも、お佳代の姿がどんどん近づいてきた。
 まだ数十歩もあるところまで来たところで、お佳代も境内の入口に座っている三治の姿に気が付いたようだ。急に歩き方がぎこちなくなったように見えた。急に顔も伏し目がちになった。二人の間の距離が狭まるに連れて、緊張感が最高潮に達した。三治はそこから逃げ出したくなったが、この機会を逃せばもうあとがないことを知っていた。自分で自分を怒った。おい、しっかりしろ。男だろ。
 目の前に、お佳代が来た。三治は立ち上がって、よう、とだけ言った。自分でも顔がこわばっているのが分かる。お佳代の顔も、思い詰めたように恐い顔をしてうつむいている。お佳代は立ち止まったが、無言のまま立っていた。三治は一気にまくし立てた。
「あの、これ、お佳代ちゃんに正月に付けてほしくて作った簪。受け取ってくれ。いや、何も遠慮するこたあないよ。おれ、まだ半人前だから、修行を兼ねて作ったもので、売れる品じゃねえから。あ、でもいい加減に作ったもんでもねえよ。お佳代ちゃんの髪に似合うように、いろいろ考えて作ったんだ。気持ちだけはこもっているから」
 三治はお佳代の手を取って、簪をしっかりと握らせた。お佳代は黙って立っている。三治はふうと息を付くと、そのまま立ち去ろうとした。
 「あのう、ちょっと待って。三治さん、ありがとう。でも、どうして私に」
 お佳代は思い詰めたように三治を見つめていた。
 三治の心臓がまた激しく鼓動した。一瞬の沈黙の後、三治が意を決したように言った。
 「おれは口べたで、商人のようにうまく言えねえから、一回しか言わないよ。おめえに惚れちまったんだよ」
 そう言うと、三治は一目産に走り出した。後からお佳代が何か叫ぶ声も聞こえたが、止まることはしなかった。もう声も届かないくらい離れたところで、三治は神社を振り返った。そこにはまだお佳代がじっと立っていた。手に簪を握りしめているのがわかった。お佳代が手を振った。三治の胸に熱いものが溢れた。それはどんどんこみ上げてきて、涙となって溢れ出た。(続く)

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