江戸の恋     上山明彦

「部屋住み」の悲哀

 武家社会では、子供の死亡率が高かったため次男、三男が跡継ぎになる こともあった。それは除外して、跡継ぎではない次男以下の子供をまとめ て「部屋住み」と呼ぶことにする。
 前回も書いたように、「部屋住み」は居候扱いであるから、一人前の武 士として生きていくためには、どこからの家の養子として入ることが最も 手堅い方法である。これは婿養子も含んでいる。
 独立して生きていく、という方法もないこともないが、それはよほどの 才能と幸運がなければ実現できない。例えば武芸に秀でた人が武術道場を 開いたり、学問に優れた人が塾や学校を開いたりすることで身を立てると いうこともあった。
 幕末に一躍注目された高島流砲術の創始者・高島秋帆(しゅうはん)は 長崎町年寄・高島家の三男として生まれた。環境的に蘭学を学ぶ機会があ り、オランダ人を通じて自費で外国の砲術を修得し、後に高島流砲術を創った。 「部屋住み」から幸運が重なって、異例の出世を遂げた人もいる。第8代 将軍・徳川吉宗は紀州藩徳川家の四男として生まれた。14歳で第5代将軍・ 徳川綱吉に拝謁したときに、幸運にも越前国丹生郡3万石を与えられ葛野藩 主となることができた。さらに、上の兄たち3人が次々と亡くなり、22歳 で紀州藩藩主となった。びっくりするような幸運である。
 井伊直弼(いいなおすけ)は近江彦根藩井伊家の14男として生まれた。 慣例に習って養子の口を探したが見つからず、32歳まで「部屋住み」の苦 しい生活を送っていた。
 ところが、第14代藩主で兄の直亮の世継ぎが亡くなったため、兄の養子 となった。35歳のとき、兄も亡くなったため第15代藩主となった。14男で 藩主となるという運の強さだ。ただしそれが本当に幸運だったかどうか疑 問だが...。
 それからトントン拍子で出世し、42歳のとき江戸幕府の大老の地位に就 く。そこから「安政の大獄」、そして44歳のとき「桜田門外の変」により 暗殺されてしまう。
 考えてみれば、井伊直弼は「部屋住み」の悲哀を心底味わった人でもあ る。その苦悩が他人へのいたわりという形でなく、逆に「独裁」という形 で表れてしまったということも言える。
 こうした幸運な武士は別にして、通常「部屋住み」は養子にも行かず独 立もできなければ、実家に「飼い殺し」状態となる。親が生きている間は まだしも、兄が当主となれば、その居づらさは耐え難いものになるだろう。
 そういう男が恋に落ちたらどうなるだろうか?「部屋住み」とはいえ、 どこかの女と恋に落ちることは当然あっただろう。どこかの武家の娘に恋 い焦がれ、結婚を申し込むことのできない境遇に涙したことも多々あった ことだろう。吉原や岡場所と呼ばれた色街に通い、遊女と恋仲になること もあったに違いない。飲み屋の女中や商人の娘と深い仲になったこともあっ たことだろう。どんな場合でも、「部屋住み」の身分では所帯を持つこと はできない。己の運命に泣いた男も多勢いたに違いない。
 これは確証のない話なのだが、ある本に書いてあった。「部屋住み」の 息子に、世話役として町人の娘をあてがうことがあった。世話役といって も内縁の妻と女中を合わせたような役目だ。当然、二人の間に子供が生ま れることもある。子供は生まれてすぐ「間引き」、つまり殺された。
 これが本当にあったことなのかどうかはわからない。大身の武家ならば ありえないことではないかもしれない。もし実際にあったとしたら、子を 育てられない二人の悲しみはいかばかりだったろうか。
 さて、運良く養子の口が見つかったとしても、妻となる女性は周囲が決 めたはずだ。弱い立場では従うほかなかったことだろう。婿養子ともなれ ば、好みを言える立場にはなく、やはり従うほかなかったことだろう。
「部屋住み」の武士と様々な身分の女性との悲恋は、想像するだけでもた くさんのケースが浮かんでくる。
 それを題材にした小説で思い浮かぶのは、藤沢周平の『よろず屋平四郎 活人剣』だ。平四郎は「部屋住み」の立場から家を飛び出し、貧乏長屋で 今で言う便利屋「よろず屋」を開業した。そこからいろいろな事件に巻き 込まれ解決していく話である。平四郎には元々婿養子の話があったが、相 手の家が陰謀に巻き込まれ取り潰し。許嫁もどこかの武家に嫁いでしまう。 そのとき二人は惹かれ合っていたのだが、「部屋住み」と武家の娘ではど うしようもなかったのだ。
 ところが、二人はある日再会し、再び愛が燃え上がる。さて、それから どうなるか?それは原作を読んでいただきたい。

「部屋住み」の武士を主人公にした場合、生きていくことも恋愛もすべて が壁だらけである。書き手としてはそれだけ意欲をそそられる面もある

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