禁断の恋 「不義密通」
第8代将軍徳川吉宗は享保の改革を行い、武士から庶民までぜいたくを 禁止。質素倹約を奨励した。 吉宗の政策に真っ向から反対した大名がいる。徳川御三家の一つ、尾張 藩主・徳川通春がその人である。彼は吉宗のやり方はかえって経済の停滞 をもたらすと反対した。名古屋では自由な商売が許されたため賑わった。 武士も庶民も潤った。遊郭も飲み屋も潤った。 ところが、家来の生活は通春の思惑を超えて、歯止めがきかなくなって しまった。家来たちの多くが遊びとぜいたくに明け暮れるようになった。 遊女を身請けし、妻にする者も増えた。これには当の通春も閉口したと言 われている。 吉宗が将軍に就いたのが1716年。徳川家康が将軍になったのが1603年だ から、江戸幕府創設から約110年経ったころの話である。 江戸時代は封建制であり身分制が厳しい時代であった。当然、道徳的に も厳しい規律があったように言われているが、本当にそうだったのかとい う疑問がわく。 大名は側室として武家の娘だけでなく、商人・職人・農民の娘からも招 き入れている。一般の武士も、いったん武家に養女に入れるという方法で 武士以外の身分の娘と結婚している。それに加えて、遊女さえも身請けし て妻としていたのだ。婚姻に関しては、現代人が考えるよりずっと、身分 に対するこだわりはなかったのではないだろうか。 武士でさえがそうであるから、庶民に至っては身分に対するこだわりは あまりなかったことだろう。 ただし、制度としての身分制は厳然としてあったわけだから、さぞかし 「なんだこんなもの。いらないやい」と思っていたに違いない。 さて、話を今回のテーマに戻そう。 神坂次郎の著書に『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)という本がある。 尾張藩士・朝日文左衛門が、実際に見た話、聞いた話を詳細に記録した日 記の解説本である。時代は元禄時代(西暦1688-1703年)。徳川吉宗が活躍 するちょっと前の時代である。 この本の中には、当時の武士と庶民の暮らしぶりが詳しく描かれている。 その中でも色事にまつわる事件や「不義密通」に関する事件が出てくる。 江戸時代には「不義密通」という罪があった。現代でいう「不倫」であ る。特に問題となったのは人妻が他の男と関係を持った場合だ。夫が武士 である場合、妻と相手の男を斬り殺す「女敵討」(めがたきうち)が認 められていた。参勤交代で夫が江戸に行っている間、出入りの男と関係を 持ってしまった妻がいた。夫は帰郷して事実を知り激怒。妻と相手の男を 斬り捨ててしまった。こういう事件もけっこうあったようだ。 しかし本当に妻を斬り殺してしまうのはかわいそうだとか、大騒ぎして は世間に恥ずかしいという理由で、穏便に済ますことも多かったようだ。 そのときの相場は7両2分だった。といっても、現代と同じく支払い能力 も問題もあるから、もっと低い金額で解決した例もあった。 そこで、こうした不義密通がどれくらいあったかという疑問がわく。 江戸の「禁断の恋」を調べていくと、この時代はけっして禁欲主義的な 時代ではなかったことがわかる。こういう問題を調べた文献がいくつも出 ているが、実際かなり多かったようだ。性に関しては奔放な時代であった と言ってもいいくらいである。氏家幹人著『不義密通−禁じられた恋の江 戸』もその一つで、非常に詳しい。出典の原文も引用され ており、非常におもしろい。 この本を読むと、昔の日本人は貞淑だったとは言えないことがよくわか る。今も昔も人間の本質は変わらないということができる。それが良いと か悪いとか批評するのは教育者に任せるとして、もの書きの立場から見る と、禁断の恋の末、悲劇的な人生を送った男と女の物語は無限にあるとい うことだ。身分の上下を問わず、どういう組み合わせもありえたのである。 男と女の愛とは何か?それを追究するのに格好の題材である。 神坂次郎著『元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世 (中公新書 (740)) 』 氏家幹人著『不義密通―禁じられた恋の江戸 (洋泉社MC新書) 』 |