江戸の恋     上山明彦

 遊女の恋(1)

 江戸の遊女の恋について語る前に、彼女たちの置かれていた境遇につい て考えてみたい。
 そもそも遊郭には、いくつかの区分がある。幕府公認の遊郭地区が吉原 (現在の台東区千束周辺)。非公認の遊郭は各地にあったが、主に宿場町、 神社や寺の門前町にあった。江戸では品川、板橋、内藤新宿、門前仲町な どが有名である。こういう地域は非合法であるから、当然のことながら遊 女たちはヤクザの支配下に置かれた。いうまでもなく酷い生活環境で、男 の相手をさせられた。こういう人たちは非合法であるがゆえに、正規の記 録には残らなかった。
 遊女たちは様々な境遇から吉原に売られてくる。まだ幼い頃にここに売 られ、遊女の手伝いをしながら修行をさせられる子供。凶作のために家族 が食べられず、泣く泣く売られてくる娘。家が貧しくて、借金の方に売ら れてくる町娘。貧乏旗本の家に生まれ、武家でありながら売られてくる娘。 その数は時期によって変遷があるが、2千人〜4千人だと言われている。
 吉原の遊女には格付けがあり、最高の「太夫」(のちに花魁という名称 に吸収された)から時間売りで春を売る最低ランクの遊女まで様々なラン クがあった。年季は一般的に十年だったようだが、それも人によって違っ ていた。
 幸運な遊女は年季が明けると、心通わせた相手と所帯を持つことができ た。相手がお金持ちならば、身請けしてもらうこともできた。事実、商人 や裕福な武士に正妻や妾として身請けされる遊女もいた。時代小説が多く 取り上げているのは、そういうロマンスである。
 遊女たちは、食べるものはがふんだんにあり、住処に困らず、きれいな 服を着させてもらうとしても、郭の外へ出ることは許されず、嫌な客でも むりやり相手をさせられた。衛生管理が甘い時代のことである。客に瘡毒 (そうどく。梅毒)を移され体を病み、人知れず死んでいった。頻発する 火事で死ぬこともあった。避妊法がないような時代でもある。妊娠して中 絶の失敗から死ぬ者もいた。その亡骸はいくつかの「投げ込み寺」に名も なく葬られた。その数、約2万人と言われている。遊女の平均寿命は22歳 だったという説がある。
 吉原の遊女の生活は、一言で表現するなら「ぜいたくな環境の中の奴隷 生活」だ。そんな境遇はどう考えても切なく悲しい。かつてガンジーが言っ たように、いかに貧困の中にあっても、自由であることのほうが人間は幸 福なのだ、と私は思う。
 本稿のテーマは江戸時代の売春制度を批判することではない。「遊女の 恋」について考えてみることである。本題に戻ろう。
 遊女は大名とも旗本とも江戸詰めの武士とも町人とも知り合う機会があ る。遊郭であるから、騙し騙されるの世界ではあるが、その中には本当の 恋もあったことだろう。
 昔吉原に「万治高尾」という遊女がいた。仙台藩主伊達綱宗に見そめら れたが、綱宗の意向に従わなかった。高尾には恋人がいたという説がある。 ある日、高尾は綱宗に誘われて舟遊びに出た。そこで綱宗の逆鱗に触れ、 船中でつるし切りにされた、という逸話がある。「伊達騒動」の一因とも 伝えられているが、どうやらそれは作り話のようだ。その後高尾がどうなっ たかは定かではない。
 二人のいきさつや高尾の恋人は誰なのか、いろいろと想像をめぐらすだ けでも小説が書けそうだ。事実、彼らを題材にした小説もある。違った視 点で、ほかにいくらでもストーリーが書けそうだ。

  ●前ページへ