時代小説 参考文献情報 上山明彦著

時代小説には自由度がある

 武士が支配する時代、つまり封建時代は身分制度や様々な制度があって、さぞかし庶民は不自由な生活を強いられていただろう。そのことは間違いない。
 社会制度と小説の話は別次元の問題である。書き手から見ると、現代小説のほうがよほど制約がある。設定を時代小説にすることで、数々の制約を取り払うことができるのである。
 具体的な話をしよう。
●まか不思議な現象が起きても違和感がない
 もしあなたが霊や超常現象を題材にした現代小説を書くとしよう。読者が違和感を持つことなく自然にその世界に入っていけるように、あなたは様々な手を使って状況を書いていくだろう。ときには強力な磁場が存在するとか、昔ここで大量殺戮があったとか、大けがをしてから不思議な力が付いたとか、何らかの科学的、歴史的理由をつけて読者を納得させることだろう。
 そこで時代設定を江戸時代以前に設定した場合を考えてみよう。先ほどのあなたの苦労は半減することに気づくだろう。極端な話、「○○屋敷には幽霊が出るという噂がある」、と書くだけで済んでしまう。読み手にはなんとなく「昔はそういうこともあっただろうなあ」という先入観があるからだ。
●道徳観念が通用する
 若い男女が気軽に会話を交わし、愛を告白し、肉体関係を持つようになったのは、第二次世界大戦後のことである。江戸時代以前には男女の恋愛には厳しい規律があったから、それだけにそこには純粋な恋愛があった。
 時代考証本によると、江戸時代の庶民の既婚者の間では現代人の想像以上に「不倫関係」があったようだ。それを根拠に当時の人々の道徳観念を現代人と同等に見なすこともできるが、社会的な道徳観念や社会的制裁は現代とははるかに違っていた。死か、すべてをなくすくらいの覚悟が必要だったのである。それだけに「不倫」といっても、精神的には相当の覚悟が必要だったのである。
 あなたが恋愛小説を書こうとするとき、それを時代小説の中で描くならば、よく純粋な形で恋愛を描き出すことができることに気づくはずだ。

 推理小説を時代推理小説と比べてみた場合でも、その自由さがわかる。
●誰でも捜査ができる
 現代社会で犯罪の捜査にあたる人物を考えてみると、いうまでもなく刑事と刑事ではない警察官があげられる。現代社会ではこういう人たちでさえ法律や組織の上部に縛られており、勝手に捜査したり逮捕したりできるわけではない。きちんと法的手続きを踏むか、現行犯のように法的根拠がはっきりしている場合でしか捜査・逮捕はできない。
 その他にはどんな人がいるか?検察官、弁護士など法律の専門家がいる。地検特捜部の検察官は刑事同様に、きちんと法的かつ組織的手続きを踏まないと家宅捜査や逮捕することはできない。弁護士は調査することができるが、家宅捜索や逮捕権限を持っているわけではない。当然ながら個々人で勝手に判断して行動できるわけではない。専門家以外を探すと新聞記者、探偵、フリーライターなど、自由に動き回れる人がいる。この人たちも法律に触れない範囲で調べることはできるが、捜査や逮捕権限は持っていない。
 現代小説では登場人物の組織的背景や法律の適用や意志決定に至る経過などに対して細心の注意を払って書いていく必要がある。
 時代背景を江戸時代にもってくると、状況は大きく変わってくる。奉行所の与力・同心というのは幕藩体制で固定されているが、その下でほぼ私的に捜査や逮捕に協力していた「岡っ引き」「下っ引き」は、同心の指名で誰でも成れた役目である。十手さえ持っていれば、捜査や逮捕ができた。彼らは給金が出たわけではないから、ほとんどが副業でそれをこなしていた(有名作品を見ても、岡っ引きたちは妻に飲食店を経営させたり、職人を兼ねていたりする)。
 さらに「岡っ引き」「下っ引き」でなくても、町人が自分の手で犯人を調べて捕まえてもかまわない。最後は奉行所関係者に引き渡すしかないが、町内には「自身番」という自警団組織があり、そこに拘束することができるのである。
 書き手にとって、この自由さはたまらない魅力である。
●違法捜査でも問題なし
 時代小説では、現代社会では違法行為となっている捜査方法でも全く問題ない。他人の家に忍び込み、秘密を探る。おとり捜査や脅しによる自白、そういうものも証拠としてあげてかまわない。
 現代小説では制約があればあるほどその裏をかいくぐるトリックの面白さがある。時代推理小説ではそれがなく自由であるから、トリックの面白さに重点を置くことはできない。ではどこに面白さがあるか?人間と人間のぶつかり合い、触れ合いである。そこにたまらない魅力がある。
●情報網が発達していない
 現代社会ではテレビ、新聞、雑誌、インターネットなどの情報網が発達している。犯罪に関係しない人でさえその情報を知っていることになる。時代小説の中では与力・同心による調べと岡っ引きたちの聞き込みによる情報収集がすべてだ。指紋分析、DNA分析などの科学捜査もない。雲をつかむような手がかりの中で、主人公がどう犯人を探り当てるかが大きな楽しみである。そこに行き着くまで、生の人間同士のぶつかり合いがあり、人情もある。ときには剣術やその他の格闘術の技の勝負もある。それもたまらない魅力となる。
●逃げ場がある
 情報網とも関係するが、現代社会では人が世界のどこに逃げても発見される可能性が高い。つまり逃げ場がない。
 江戸時代ならば身を隠す必要がある人が、日本のどこかでひっそり暮らしても不思議ではない。これは話の展開の途中やエンディングで大きな意味を持つ。実際に書いてみるとそれがよくわかるはずだ。

 推理小説の要素を持たない時代小説は市井小説、人情小説とも呼ばれる。人間同士の諍い、家族愛、夫婦愛、師弟愛、忠誠心、義理、人情を前面に押し出した小説のことである。
 現代と比べれば行動範囲が狭く、情報が少なく、交際範囲も狭い社会である。余計な要素が少ないがゆえに、人間を素直に深く見つめることができるのである。それゆえに生の人間同士の問題が強く押し出されてくる。そこに書き手の腕が求められてくるのである。そこに時代小説を書く最大の喜びもある。藤沢周平をはじめ多くの一流作家が時代小説にこだわった理由は、まさしくそこにあると私は考えている。

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