水上勉に学ぶ
お寺の小僧から作家へ
父は貧しい大工。母は小作で生計を助ける生活。兄弟は五人。苦しい生活のためにヒステリックになる母親。仕事がないときは葬式道具を作りながら不機嫌になる父親。そんな家が嫌でたまらなくなり、九歳でお寺に小僧として修行に入った。
それが水上勉にとって第一の転機となった。その寺で読み書きや礼儀作法を教えてもらったことが、その後の人生に大きな影響を及ぼしたからだ。
旧制中学四年の時、初めて小説を書いた。それは認められなかったが、作家への契機となった。十九歳で満州に渡り、やがて帰国。 二十歳の頃、雑誌への投稿を始め、二十一歳の時、高見順に認められる。そして作品が初めて活字になった。
そのころ、アルバイトしながら立命館大学の国語漢文科に入学している。やがて大学を中退。そして一念発起し、東京に出てくる。最初に勤めたのは日本農林新聞社であった。
そのころから小説にのめり込んでいったという。それまでは他人の小説を読んでいなかったが、それ以降好きな作家の文体をよく真似て書いてみたと語っている。
その後の作家としての履歴を見てみよう。
「戦後、「フライパンの歌 (1962年)」で作家としてスタート。一時、文学活動をやめていたが、一九五九年に「霧と影」でカムバック。六一年に「海の牙」で日本探偵作家クラブ賞受賞。「雁の寺」で直木賞に輝き、叙情性豊かな「水上文学」を築いた。
一九六一年 第四十五回直木賞=「雁の寺」(文芸春秋別冊)
一九七一 年 第十九回菊池寛賞=独自の伝記文学「宇野浩二伝 上
」
一九七三 年 第七回吉川英治文学賞=「北国の女の物語」など旺盛な作家活動
一九七五 年 第十一回谷崎潤一郎賞=「一休」(中央公論社)
一九七七 年 第四回川端康成文学賞=「寺泊」(「展望」一九七六年五月号)」
(読売新聞データベース参照)
水上勉は直木賞受賞作について、岡富久子さんという名編集者が半分以上書かせてくれたと語っている。本当の意味で作家を育ててくれるいい編集者はめったにお目にかかれないが、自分が作品を書き、いろいろとチャレンジしていく中でいい出会いもあるに違いない。
水上勉は家庭環境には恵まれなかったが、出会いには恵まれたと言えるのではないだろうか。それを自分に引き寄せることができたのは絶え間ない努力があったからではないだろうか。