宮尾登美子に学ぶ

   満州での辛い体験が源となった

 数年前のことだったと思うが、テレビでNHKドキュメンタリーを見ていたら宮尾登美子が出ていた。旧満州(中国東北部)を約五十年ぶりに訪れた彼女が、戦争中のここでの悲惨な体験を切々と語っていた。その時代のあまりの辛い思い出に、五十年もの間この地を訪れることができなかったという。
 昭和二十年三月、宮尾登美子は教師の妻として満州に渡った。わずか一月前の二月に生まれたばかりの長女を連れて一家三人の移住だった。渡満してまもなく彼女は病気で寝込んだ。医者から見放されるほどの重体だったが、奇跡的に自然回復した。
 しかし敗戦濃厚で、まもなくソ連の参戦、日本の降伏があった。開拓団は中国人に襲撃される事態に何度も遭遇した。その時の模様を彼女はこう語る。自分たちの命を何度も救ってくれたのも中国人だった。ある中国人の家に世話になっていた時、赤ん坊を背負って水くみをしていた。すると暴徒の一群が押し寄せてきたので、慌てて家の台所に逃げ込んだ。暴徒は彼女たちを発見できずに通り過ぎていった。そのとき身を隠したのは、小さなかまどの中だった。
 その現場はまだ残っていた。再びそこに立った宮尾は、シミジミこう言った。「よくもまあこんなに狭い所に赤ん坊を連れて入れたわねえ」。映像で私も見たが、とても大人が入れるような空間には見えなかった。それだけ必死だったのである。
 避難民となった宮尾一家は、日本人が集結していた炭鉱に身を寄せる。だが、そこもまた生き地獄だった。ほとんど食べる物がなく、厳しい冬を迎えた。栄養失調で老人と子供がばたばたと死んでいく。炭鉱労働者も結核やコレラが蔓延し、次々に死んでいく。そういう厳しい状態で、宮尾登美子親子はなんとか生き延びることができた。何とか生きて日本に帰りたいという強い想いがあったからだ、と彼女は語っている。
 生きるのも厳しい状況で、「私はあさはかにも子供を売ろうとしたことがある」と彼女は涙ぐみながら告白していた。難民となった日本人の周りには、子供を買いにくる中国人がたむろしていた。目の前にたくさんの食べ物を並べながら・・・。「子供を手放せば子供は飢え死にしなくて済む」。その言葉が気弱になった脳裏を何度も駆けめぐったという。結局、手放すことはなかったが、一次的にしろそう思った自分が許せなかった。
 何度も死ぬ思いをしながらなんとか引き揚げ船に乗り込み、帰国。乞食よりもひどい格好で夫の実家がある高知に帰り着いたのが、昭和二十一年九月のことだ。その後、この満州での悲惨な戦争体験を後世に伝えなければ、という想いが作家をめざすきっかけとなった。
 高知に戻ってからは、近くで保母の仕事に就きながら執筆に励んだ。彼女は厳格な父親の反対で大学進学をあきらめ、師範学校に入ったことがある。父親に反発した彼女は、代用教員の職を見つけ、わずか十七歳で家を出た。そのとき知り合ったのが、後の夫だった。戦後、女性が仕事を探しても、なかなか見つかるものではない。安い給料で大変な仕事だったが、それを七年続けることになる。
 作家として注目されるようになったのは、昭和三十七年に応募した「連」が「婦人公論」の女流新人賞を受賞してからだ。
 受賞後、彼女は二十年連れ添った夫との離婚を決意する。手記によると、その理由は一言では説明できないと語る。そして昭和三十八年に離婚成立。翌年幼なじみの高知新聞記者と再婚した。
 だがその後、借金が元で逃げるようにして一家で上京。下高井戸の六畳一間のアパートで再スタートを切った。生活のためにフリーでライターの仕事をしたが、評判が悪く仕事が来なくなった。やむなくある出版社の編集部に就職。これが作家としての自分を見直す契機になる。
 華々しく新人賞を受賞した宮尾登美子だが、作家としてはその後十年間、泣かず飛ばずの時代を過ごすことになる。出版社に原稿を渡すと丁重に送り返されてくる。わずかの寄稿だけで作品を発表するだけになっていた。
 転機が訪れたのは昭和四十六年三月のこと。前年、いい作品を書くことだけを目的にして書いた『』を自費出版し、それを出版社に配った。それがみごと太宰賞を受賞したのである。その後の活躍は『鬼龍院花子の生涯』などで読者もご存知のところである。
 宮尾登美子の手記の中で、非常に印象的な部分がある。「文学は夥しい無駄な時間と、数え切れないほどの試行錯誤を栄養として育つ贅沢な言葉の遊びなのだから、根底に貧しいものが横たわっていては、決して豊かな成長は遂げられないように思う」。貧困のどん底を経験した中で得た哲学である。私も同感だ。

 作家をめざす現代人の中には、貧困のどん底で小説を書き上げ有名になった昔の作家の生活を真似る人がいる。そんな真似よりも、稼いだお金で視野を広げ、経験を積むほうが何倍も有益である。この物資が豊富な時代に、自ら進んで家族や恋人を貧困のどん底にまで落として得なければならないものなどあるだろうか。
 旧満州からの引き揚げの話はテレビで度々聞くことがあるが、涙なしには聞けないものがある。作家は語り部だという表現がある。宮尾登美子は結婚するまで、当時としては裕福な家庭で育っている。旧満州での悲惨な体験が、彼女の語り部としての本能を呼び覚ましたのではないだろうか。