佐藤愛子に学ぶ

   不幸な結婚・死別、そして作家へ

 この作家だけ激動の人生なのか、それとも戦争を経験した世代はすべて激動の世代なのか、戦後世代の私には、戦後の混乱期を生き抜いた人の話を聞くと、すべてに驚きと感動を覚えてしまう。そのため私の分析はかなり一面的なものになってしまいがちである。
 佐藤愛子の作家への道には、重々しさがある。
 一九二三年、大阪市生まれ。甲南高女卒。佐藤紅緑の娘。サトウ・ハチローの異母妹。一九六九年『戦いすんで日が暮れて 』で直木賞受賞。これが彼女の略歴だ。
 佐藤愛子はお嬢様育ちで、戦前に若くして結婚し、終戦を迎えだ。そのときの気持ちを、希望が湧いて来たと表現している。早まって結婚したことを後悔したとも。夫が麻薬中毒だったため、四年後に別居。その二年後に夫が亡くなっている。
 独身に戻ったのが二十五歳。その時彼女は、小説を書いて生きていこうと決心する。その理由は、亡くなった父親が彼女の手紙を見て、「あの子には文才があるなあ」と言っていたというそれだけのことであった。すぐに小説を書いて食べていけると思いこんでいたのである。
 佐藤愛子はせっせと原稿を書き、懸賞に応募した。

新聞社の懸賞に応募するために直接新聞社に原稿を持ち込んだり、ある雑誌の編集長を紹介してもらって原稿を見てもらったりしている。まさに怖い物知らずであった。当時を振り返り、よくそんなことができたものだと、恥ずかしそうに語っている。
 しばらくして「文芸首都」という同人誌に入会する。自分の作品を持ち寄り、互いに批評し合うのが中心の活動であった。そこには後に結婚することになった田畑麦彦や北杜夫がいた。同人会では文学論を交わし、楽しい「青春時代」を過ごすことができたと語っている。
 文学を志す人間の雰囲気は非常に似通った部分があって、他の作家への悪口に近い批評、自分の芸術への純粋な志向、それと裏腹の現実のドロドロした生活の正当化、などが入り交じった雰囲気であった。
 そんな中で、佐藤愛子は異色であった。自分は夫が麻薬中毒にならなければ小説を書くことはなかった。他にできることが何もないから小説を書いて食べていこうと思った。そう主張している。

気取りがなく、自己正当化もないので、逆に素直さを感じる。青臭い文学青年なら「俺は金が欲しくて作家をめざすんじゃない。純粋な芸術を追求するためにやるんだ」というだろうが、そのほうが何か嘘くさい気がする。
 佐藤愛子は、毎日のようにせっせと作品を書き続けた。最初は好きな作家のマネをして書いていた、という。

次第に洗練されて自分の文体を作り上げていった。周囲の励ましと評価によって同人誌の賞を受賞後、先に書いたように直木賞作家と成長していく。
 佐藤愛子は有名な父親の力を借りて作家になったのかもしれない、という先入観を持っていたが、それは間違いであった。彼女もまた他の作家と同じように悩み苦しみ、自分の世界を作り上げていったのである。