司馬遼太郎に学ぶ(四)

   子供の頃に夢見たもの

 企業社会では「夢ばっかり見るな、現実を見ろ」と言われ、夢を追い続けることがあたかも悪いことのように非難される。常識や知識と呼ばれる ものが尊ばれ、それをいかに身につけているかで立身出世が決まる。
 文学の世界ではそれと正反対で、夢を持ち続けなければどんな人でも才能は開花しないし、開花してもすぐしぼんでしまう。夢は想像力の原動力であり、それが感受性や創作力へとつながっていくからだ。常識や知識は、文学・国語の先生、評論家、編集者といった職業には絶対的に必要な要素
だとしても、作家にとっては必ずしも重要な要素ではない。
 夢を持ち続けよう、ということをテーマに、この稿を締めくくりたい。
「私は文学論議というものにどういう関心もないが、ただ作家にとっては知識は敵であるということだけは、どうもそうらしいと思っている。年をとって知識がふえればふえるほど、物事に感動することが少なくなるが、それだけのぶんだけ創作力がなくなってゆく。」(司馬遼太郎著、『街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか 』、二一九頁、朝日文庫)。

 司馬遼太郎氏は、一九二三年(大正十二年)八月、大阪市に生まれた。少年時代は感受性が豊かすぎたようで、相性の悪い教師に教えられた数学、英語は得意ではなかったという。
 旧制中学卒業後、一九四一年(昭和十六年)大阪外国語学校(現大阪外国語大学)モンゴル語学科に入学。

 その頃のモンゴル語学科といえば、きわめて人気がなかった時代である。なぜ司馬遼太郎はこの学科を選んだのか。

 私が氏の著書を読みあさったのは、その理由を知ることも目的の一つにあった。本人は他の学校に合格できなかったからと謙遜しているが、本当のところは、モンゴルの草原を駆け回る騎馬民族に憧れ、その足跡を追ってみたい。いつか自分もその草原に立ってみたい、という夢があったからのようだ。実際、その夢は『街道をゆく 5 モンゴル紀行』などの多くの著書で実現している。

 一九四三年十二月、学徒出陣。戦車隊に編入され、初めて立った戦場は旧満州(現在の中国東北部)の旧ソ連との国境沿いだった。かつて騎馬民族が駆け回った草原に、自分は戦車を率いて立っている。しかもとても生きて帰れそうにない。その心境はいかばかりだったか。

 一九四五年に終戦を迎え、復員。このとき二十二歳。前にも書いたが、この戦争体験が司馬氏の作家としての原点となった。「二十二歳の自分自身への手紙」。氏の膨大な作品群は、それが結実したものなのである。

 一九九六年(平成八年)二月十二日逝去。享年七十二歳。

 氏の業績を記念して、「司馬遼太郎記念館」が建てられている。氏の蔵書や愛用品が展示されているので、関心のある方はぜひ出かけられたい。行きたい、行きたいと思いつつ、残念ながら私はまだ閲覧したことがない。

 所在地等を記しておきます。

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