阿刀田高に学ぶ

   作家に必要な能力とは?

 阿刀田高は結核から手術という大病の後、たいへんむずかしかった就職活動の末、国立国会図書館に勤務した。そこで「雑文書き」で原稿料をもらっていた。給料が少なかったので小遣い稼ぎが目的だったと言う。

 そのうちに、もの書きを専業にしようと考えた。三十七歳のときだ。編集者からの薦めもあって小説を書くことにした。筆一本で生きていくという選択は、三十代半ばで、六歳の子を筆頭に三人の子と妻を持つ人間にとって大変な決断である。しかも、阿刀田はそれまで小説を書いたことがなかった。

 「その時まで私は小説などほとんど書いたことがなかったので、方法論などは少しも持っていませんでした。大学は文学部でしたから、文学についてはそれなりの考えを持っていました。が、それは自分が書くのとは全く別のことです。」(『日曜日の読書』』、新潮文庫、一八〇頁)

 不思議と言えば不思議な話だが、それまで読者として小説に接しながら作家としての能力をどこかで身につけていたのだろう。

 では、作家に大切な能力とは何だろうか?

 阿刀田はこう指摘する。まず文章力。単に上手というだけでは不十分で、「何らかの味わいが必要」と言う。「味わい」とは、物事に対して独創的な見方ができることだ。その独創性の程度も問題で、常識的過ぎるとつまらない。あまりにも読者の感覚から外れ過ぎていると、共感を得ることができない。

 読み手に意味が伝わることが大前提で、それに加えて共感、感情移入、驚きといった心情に訴えることができる文章力が必要であるということなのである。

 よく言われることだが、才能があっても世間に認められない作家もいる。それはなぜなのだろうか。

 この疑問についても、阿刀田高は簡潔に答えてくれる。

 「これは答えにならないかもしれませんが、運がよい人でなければ駄目ですね。

 小説の世界は今年は赤が流行しているから赤でゆこう、来年は青が流行するだろうから青で、というふうには出来ていない。その人が持っている資質で書くよりほかにないのです。それが時流に合わなくてもどうにもならない。赤しか書けない人には赤しかないわけで、借り物は駄目なんですね。その赤が流行遅れであったり、あまりに早すぎたり、せっかく時流に合っているのにその直前に赤の名人がいたり、なかなか思ったようにはいかないものです。運としか言いようがないものを感ずるときがあります。」(出典:前掲書、一〇三頁)

 なるほど、阿刀田高の言葉が胸に突き刺さるようだ。

 たとえば時代小説を得意とする作家が、今SFが売れているからといってそれを書こうと思っても、そう簡単には書けない。逆も同じである。天賦の才があっていろいろなジャンルの作品が書ける人もたまにはいるが、たいていの人は「借り物」になってしまう。

 時代の流れの中で、読者はこういう文学を求めている、という傾向のようなものはたしかにある。それに自分の志向や文体が合うかどうか?仮に合ったとしても、偉大な先輩がすでにその分野で書き尽くしていたら、非常に大きな壁となる。

 たしかに「運」としか表現しようがない。「それでも書きたいんだ」というような情熱がないと、とてもやっていけない。阿刀田は執念が必要だと言う。

 「最後に執念です。世間の人は、なぜか小説家というと、お金が儲かる仕事のように思いがちですが、経済的に豊かにやってゆけるのはせいぜい三、四十人ぐらいですね。まあまあの線で普通のサラリーマンと同じくらいのものです。大半は他に仕事を持っているか、奥さんに食わせてもらっているか、生活保護を受けているか、そんなものです。それでもこの道を続けるとすればやはり執念だけでしょう。」(出典:前掲書、一〇三頁)

 執念。たしかにそうだと思う。

 かといって短絡的に、サラリーマン生活をすぐ辞めて作家をめざす、ということが執念ではない。サラリーマン生活にも重要な意味がある。

 小説家が描く世界は、具体的であり、世俗的である。生身の生活を描きつつ、その人間の喜怒哀楽や男女の愛を描いていくものだ。実社会を知らずして、リアリティのある小説は書けない。もちろんそこには程度というものもあり、埋没してしまっては元も子もないが、まったく知らないというのはマイナス要因となる。

 実社会の経験があったほうが、生身の人間関係からくる矛盾、悩み、妬み、あつれき、友情、恋愛といったものが理解でき、かつリアリティのある小説が書けるということなのだ。

 単純化して言ってしまえば、サラリーマン生活を取材しながら生活費を稼いでいる、と考えればいいということになる。読者諸氏も気が楽になったのではないだろうか。