開高健に学ぶ 4

   心の傷

 人は誰でも心に何らかの傷を負っているものだ。もしそれを負っていない人がいるとすれば、類い希な幸福人といえるだろう。そういう方はぜひ私にご一報いただきたい。

 幼い頃に受けた心の傷は、その後の人生に大きな影響を与える。場合によっては、人格そのものを変えてしまう。

 先日、『バカの壁 (新潮新書) 』の著者養老孟司の古いエッセイを発見した。それはとても衝撃的な話だった。

 養老孟司が四歳になる一ヶ月前のある日のこと。深夜に突然起こされた。すぐに父親の前に連れて行かれ、サヨナラを言うように言われた。父親は危篤だったのである。声が出ないまま父親を見つめていると、父親がにっこり笑った。その後すぐに亡くなった。

 養老孟司は、その出来事の後、三十年間まともに他人と挨拶を交わすことができなかった。知人とすれ違っても挨拶せずにいたために、後で自宅に怒鳴りこまれたこともあった。養老孟司は四十歳に近づいた頃、父親の死と挨拶ができない原因が関係していることを自覚する。

 「他人に挨拶をしない限りは、父はいつも私にとっては生きていたのである。(中略)。私が真に父の死を知ったのは、このことに気づいた時である」(『死ぬための生き方 』、二九二頁。新潮文庫。42名の著名人のエッセイ集)。

 養老孟司の心の中では、父はずっと生きていた。だから他人に挨拶をしなかった。挨拶をすれば、父の死を認めたことになる。そのことに気づいた時、突然涙があふれ出てきた。中年の男が地下鉄の中で突然泣きだしたのだ。葬式でも泣かなかった男の子が、中年になって初めて泣いた。ようやく父の死を認めたのである。

 自分が医者をめざしたのも、父の死と関係していたのかもしれないと、養老孟司は言う。いろいろな意味で、それが彼の人生に大きな影響を与えたことは間違いないのである。

 開高健の苦悩について書きながら、なぜ養老孟司の話になったのか。実は、開高健の心の中にも、何か幼い頃の出来事で、深い傷になっていることがあるのではないだろうか。という疑問があったからである。他人の心の傷を探すのは、心の中をかき回し、傷をさらに深めてしまうようで心苦しいところがある。それでも私は知りたいと思う。自分というものを材料に多くの小説やエッセイを書いている作家だけに、その思いはなおさらだ。

 『最後の晩餐』(開高健著、文春文庫)を読んでいたら、少しだが私の疑問に答えてくれる箇所を見つけた。

 開高健は、人間の本能である「食欲」と「食文化」についてこだわり続けた作家でもある。

 もう一つの本能である「性欲」と「性」については、「明るい猥談」のようなものとして、雑誌「プレイボーイ」に連載したエッセイをまとめた本『風に訊け』(集英社文庫)があるので、そちらを参考にしていただきたい。話がそれるが、開高健の「猥談」にはなぜあんなに不潔感がないのだろう。青空の下で、子どもたちが今仕入れてきた「大人の情報」を交換し合うような爽快さがある。子どもをそのまま大人にしたような作家である。

 本題に戻る。敗戦の年、開高健は十三歳。父親はだいぶ前に亡くなったらしい(父親の話がほとんど出てこないのでよくわからない)。当時、一家の生活は経済的にかなり貧しかった。「母親は毎日、水の虫のように泣いていたが、二人の妹は泣く気力もなくぐったり寝そべっていた」(『最後の晩餐』、二三九頁、文春文庫)。彼は学校へ持って行く弁当がなかったので、昼飯の時間になると、こっそり教室を抜け出し、運動場の水飲み場へ行き水を飲み、時間をつぶして教室へ戻るという生活を繰り返していた。それを見ていた朝鮮人の友人が「トトチャプはつらいやろ」と言った。「トトチャプ」という朝鮮語が脳に焼き付き、一生忘れられない単語となった。

 それから十数年後、小説家となっていた開高健はある日、映画館でニュース映画を観た。東北で冷害があり、東京の小学校から東北の小学校へサケが送られた。それが教室で生徒に配られた。すると、一人だけ教室からそっと抜けだし、運動場の隅で遊んでいる男の子が映った。その子はテレ笑いして、どこかへ消えてしまった。そこに昔の「トトチャプ」の自分がいた。開高健はそっと席を立ち、暗いトイレへ駆け込み、黙って泣いた。

 戦中戦後の苦しい時代の中では、何も開高健だけが苦しかったわけではない。誰もが苦しみ、嘆き、傷つき、それを乗り越えてきた。私が知りたかったのは、なぜ開高健だけが深く傷ついてしまったのか、ということだ。同じ経験をしても、あるいは恵まれた境遇にいる人でさえも、深く傷つく場合がある。ある人には耐えられる苦しみが、ある人には耐えられないことがある。開高健は他人の何倍も感受性が鋭く、そのために深く傷つきすぎたのではないだろうか。それが私の推測である。

 母親一人、子ども三人のそれまでの暮らしの中で、どんなことがあり、どんなふうに開高健が感じたのか、それを知りたいと思う。余計なお世話、余計な詮索なのかもしれない。だが、私は知りたい。なぜか。それはただ開高健に共鳴するからとしか説明することができない。