佐藤さとるに学ぶ 4

   ファンタジー作家になる五つの条件」

 ファンタジー作家になるにはどうしたらいいか。どういう人が向いているか?そういう疑問に佐藤さとるは明確に答えている。

 彼は「五つの条件」があるという。

 最初に挙げているのは、想像力が豊かであること。その意味するところは、単に空想の世界を描くから想像力が必要という意味ではない。ファンタジー小説では、空想の世界を具体的かつ克明に描写しなければ、読み手がリアリティを持ってその世界を思い描くことができない。同時に、登場人物の心の中の世界も生き生きと詳しく描かなければならない。

 なんとなくふわふわしたイメージだけで描いていこうとすると、途端に行き詰まってしまう。書き上げたとしても中身が薄っぺらな内容で終わってしまう。

 「作家には読者の想像を超えた想像力が求められる。

 第一は、想像力が豊かであること」(出典:佐藤さとる著、『ファンタジーの世界 』、八二頁。講談社現代新書)

 私には八歳の娘がいる(執筆時現在)。そのせいか道行き子供たちの生活に目が向く。夕方、塾通いする小学生たちの姿をいろんな所で目にする。中学受験のためだ。現代の子供たちは、空想することが「悪」のように見られていないだろうか。科学的見方をするほうがテストの点数が上がる。世渡りがうまくなる。そういうことになるだろう。

 受験のための教育は子供たちの芸術的才能をつぶしている。それだけでなく、実は科学的才能もつぶしている。エジソンに想像力がなければあれほど偉大な発明はできなかっただろう。アインシュタインに想像力がなければ、光も宇宙も解明できなかっただろう。今常識とされている人間の科学の常識が実は間違っていたことが証明されることが度々ある。今の科学の力そのものがまだまだ不十分だ。そういう限界を打ち破っていくのは想像力である。

 空想は決して嘘を教えることではない。多角的・多面的な見方を教えることなのである。それが想像力を育てることにつながる。子供たちの想像力を伸ばしたい。空想を大切にしたい。そう思う。そうすることは大人たちの想像力を大切にすることでもある。大人たちの心に潤いをもたらし豊かにすることでもある。

 第二は文章力。これは当然のことだ。最低でも読者が違和感を感じることがなく読み進んでいけるレベルの文章が書けなければならない。文法的な間違いは論外だ。

 「第二には、文章力を身につけること。ファンタジーにかぎらず、物語、小説の類を書くには、文章力が弱くては文字通り話にならない。一般の小説のように、現実にも起り得ることを書いてさえ、なかなか作者の思い通りには他人に伝えられない。ましてファンタジーは、現実には起り得ないことまで書いて、それを読む人が、ついつい信じてしまうほどに過不足なく伝えなくてはならない。非現実な出来事を、目に見えるように描写するので、それだけ強い説得力と描写力が望まれる。文章力が要求されるのはとうぜんである」(前掲書、八二~八三頁)

- 小説は読者のために書くものである。書き手はすべてを文章で読み手に伝えなければならない。開高健は「文章で伝えられないものはない」という信念を持っていた。味や臭いというものは、文章で描写しにくいものの一つである。そういうものに果敢に挑戦した。文章力は訓練で鍛え上げることができる。日頃から見たもの、聞いたもの、経験したものを文章で表現する。それが大切だ。

 第三は、作家の価値観や世界観。作家は柔軟な頭を持たなければならないということを言っている。

 「第三には、確かな人間観、世界観を持つこと。これは、何をするにも基礎工事のようなものだから、人生について、人間について、人間の作る世界について、一つの意見を持つように心がけなくてはならないだろう。そして、その意見を修正してふくらませて、変えていくことを、怖れないようにしなければならない。変わらない意見を持ち続けることも大切だが、それらを変えていくことの方がいっそう大切だろうと思う。そのためには他の意見をよく聞き、読むことだ」(前掲書、八三~八四頁)

 この文章は説明するまでもない。大事なのは、自分の人生観や世界観を、小説の中で読者にわかってもらおうとして書きすぎないことだ。むしろ「遊びの精神」に徹して、読者に楽しんでもらうことのほうが大切である。佐藤さとるはそう指摘する。

 書き手が「遊びの精神」に徹して書いたとしても、その人の人生観というものは、作品の中からにじみ出てくるものだ。それは読者の心に自然と伝わっていくものだ。

 「遊びの精神」といっても、いいかげんな気分で書けるものではない。「命をかけても惜しくないほどのもの」であると、佐藤さとるは言う。

...「それでも遊びの精神を発揮して無心に書き綴れば、作者の心の底にある人生観、世界観は、いかにささやかであろうとも、本物としてにじみ出てくるはずである。そして、本物は、付け焼刃の政治思想や社会的正論などの遠くおよばない高い価値を持っている。おそらく未熟な批評家の目にはめったに止まらないだろうが、読者はかならず感得するだろう。理くつでなく、そういう伝達の形こそ、文学本来の婆だろうと思う。

 しかし遊びの精神といっても、ふわふわの浮かれた気分とはかなりちがう。ファンタジーを創り上げようとするときの創造再生作業は、生半可な態度では行なえない。大げさにいうと、必死でとり組むべきものなのだ。はじめは、とりとめもない空想から出発しても、それらを心の中からとりだして、醒めた頭で組み立て、創造者に似た立場で物語世界を創る遊びは、遊びの中でもほとんど最高の遊びである。もともと命をかけても惜しくないほどのものなのである」(前掲書、六二頁)

 第四は、好奇心。これもまた説明するまでもない。

 「第四に、旺盛な好奇心を持つこと。これは遊びの精神といってもいいが、好奇心は知識欲、創作欲の源泉でもある」(前掲書、八四頁)

 第五は、根気。私は何事にも根気がないほうである。芸術を含む「続けられる仕事」が、自分に最も合った仕事なのだと、私は考えてきた。

 佐藤さとるが言う「才能とは情熱が持続すること」とは、そういうことなのだと思う。情熱が湧くから続けることができるのである。そういうことを含めて「才能」と呼ぶのである。

 「第五に、根気だ。文章を綴ることはじつに根のいる仕事である。『才能とは情熱が持続すること』といういい方もできるほどで、はじめはまるで才能がないようでも、その仕事をあきずに続けようとする情熱が消えなければ、それがその仕事にふさわしい才能である」(前掲書、八四頁)

 情熱が湧く仕事であっても、楽しいことばかりではない。落ち込んだり、怒ったり、喜んだりの繰り返しだ。それでも好きな道なら悔いはない。迷わずに突き進め、若者よ!とまあ、年寄りの説教のような文章で今回は終わり。