山本周五郎に学ぶ 1
小説にはよき小説とよくない小説があるだけだ
山本周五郎の小説が好きで、彼の生涯や文学観についても興味を持っていた。いくつか資料があったが、もっとも参考になったのは、『山本周五郎全エッセイ集―定本 (1970年) 』(中央大学出版部発行)だった。これは絶版になっている。周五郎本人の生の声が聞こえるかのようないい本である。
次の引用は、周五郎の文学観の根本を成しているものを表している。ちまたでは「純文学」と「大衆文学」の区別にこだわる人がけっこういるが、彼は「小説にはよき小説とよくない小説があるだけだ」という考えに全面的に賛同している。私も同じ考えである。本質的にいい小説があり、いいか悪いかは書き手の才能、情熱、技術によるのである。
「よい小説が純文学的作品のほうにより多く」という文章があるが、これは当時の話で、今ではそういうことは言えないだろう。
「小説は作者が『書かずにはいられない主題』があって書きます」という文の意味は、後でまた詳しく紹介したいと思う。「もっとも多数の読者に呼びかけようという欲求」についても同様だ。
「ささやかな私見を述べるにすぎませんが私自身は純文学と大衆文芸との区別を原則として認めません。かつて大池唯雄氏はそのすぐれた随筆のなかで『小説にはよき小説とよくない小説があるだけだ』と書いておられた。私もそのように信じています。よい小説が純文学的作品のほうにより多く、反対のものが大衆文芸なるもののほうにより多いという比率は、現に事実が示しているし、だれにも否定することはできないでしょう。だが、それは作者の資質や情熱、作者がなにを為そうとしたかという意欲、などの問題であって、小説の分野によるものではないと思います.
わかりきったことだが、小説は作者が『書かずにはいられない主題』があって書きます。その手法は各人各様であっても、もっとも多数の読者に呼びかけようという欲求に変りはないでしょう。なぜなら--このことはまえにいちどこの欄で書いたと記憶するが、現在『自分の芸術的良心の満足だけで書かれた』ような小説は、もはや同人雑誌の中にさえ存在しなくなっているからであります」(前掲書、「歴史か小説か」、三〇ページ)
周五郎は、次のように言い切る。「面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない」と。
「おしなべて小説なるものには議論はないと考えている。面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。批評家がむきになって「これは芸術的傑作だ」と証言してくれても、面白くなければ私は失礼する。その点は私はごく俗人であるから無用ながまんは決してしない」(前掲書、「大衆文学芸術論」、五ページ)
では、読者にとっては何がおもしろいかという問題が残る。いわゆる「大衆小説」が娯楽性だけに走り、いわゆる「素人受け」だけを狙うようになっては支持されない。どこかに普遍的テーマがないと本当の意味で読まれない。
逆に、いわゆる「純文学」というものが書き手の芸術的良心を満足させるだけ、つまり自己満足に終わるならば、大衆から離れていくだけである。
娯楽性、大衆性、芸術性の関係は、「はいこれです」というように簡単に示すことができる問題ではない。
『たしかに、その「主題」や「文章」や「構成」についての作者的良心や情熱や努力の点で、純文学と大衆小説とは格別である。大衆小説の中には娯楽性を尊重するあまり「作話術」と「筋立てのケレン」を除けば、あとにはなにも残らないというものが少なくないが、同時に (いわゆる)純文学の中にも、作者自身の芸術的良心を満足させるために、もっとも多数の読者から離反する例が多い。しぜん、大衆小説が現在のありかたのまま「向上」し、たとえば「純文学」的になるとすれば、(その本質からいって不可能であると思うが)最大多数の読者から離反する危険を伴うし、それは自ら墓穴を掘ることであって、ここに大切な問題があると思う』(前掲書、「中島建蔵氏に問う」、二一頁)