山本周五郎に学ぶ 3

   これだけは書かずにはおられないことがあるから書く

 なぜ小説を書くのか。その問いに、山本周五郎はきっぱりとこう答えている。

 私がたとえば「将門」を書くといたします。私が「将門」の伝記の中で、私がこの分はかきたいと思うからこそ、--現在、生活している最大多数の人たちに訴えて、ともに共感をよびたい、というテーマが見つかったからこそ小説を書くわけでございます。詰がワキ道にそれるかも知れませんが、私は、自分がどうしても書きたいというテーマ、これだけは書かずにはおられない、というテーマがない限りは、ぜったいに筆をとったことがありません。それが小説だと思うんです。

 それを読んで、現在、こういうアトム(原子)時代の生活をしながら、私の、その小説から、読者の共感をよぴおこすことができた、とするならば、それはまさしく現代小説でぁって、背景になっている時代の新旧は、問うところではない、と思うのであります』(『山本周五郎全エッセイ集―定本 (1970年) 』、「歴史か小説か」、五〇ページ)

 どうしても書きたいことがある。ともに共感してほしいことがある。そういうテーマが見つかったときに書くのである。これが作家の根本的な姿勢である。

 世の中にはそういう衝動がなくても、こういう題材で書けばおもしろい小説が書けるな、読者にうけるだろうな、と簡単に書ける器用な作家がいるはずだ。それを完全に否定しているわけではない。

 私は作家の原点は、この山本周五郎の言葉にあるということを言いたいだけである。

 作家の「これだけは書かずにいられない」という気持ちで完成した小説は、読み手に深い共感を与える。リアリティのある生活を描き出し、絶望や悲愴感を与えつつ、そこに希望を見いだすことができる。

 「原則として、小説は(読者に対して)多くの効用をもつものである。よき一編の小説には、活きた現実生活よりも、もっとなまなましい現実があり、人間の感情や心理のとらえがたき明暗塞がとらえられ、絶望や不可能のなかに、希望や可能がみつけだされる。小説はすばらしいものなのだ。

--こういうことが、決して誇張でないことは、多くの小説作者がその読者から受取る、感想や感謝の手紙だけを例にとっても、明らかに立証されるといってよいだろう」(前掲書、「小説の効用」、二五ページ)

  ここで簡単に、山本周五郎の略歴を紹介しておきたい。

 略歴

一九〇三年(明治三十六年)〇歳

  山梨県北都留郡初狩村にて清水家の長男として誕生。三十六(さとむ)と名付けられた。

一九一〇年(明治四十四年)七歳

  神奈川県横浜市久保町に転居。横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)に編入。

 この学校で、三十六は一人の恩師と出会う。小学校四年生のとき、作文が得意だった三十六に水野実先生が「小説家にでもなれ」と言った。この日から、周五郎は小説家になろうと決心した。

一九一六年(大正五年)十三歳

 横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。

 卒業と同時に東京木挽町(現銀座)にあった山本周五郎商店(きねや質店)に住み込んで奉公することになる。

 三十六は家が貧しかったために中学校へ進学することができなかった。

 ここで二人目の恩人と出会うことになる。店主の山本周五郎(洒落斎と名乗っていた)である。自ら小説を書くような文芸愛好家だった。丁稚、番頭には夜学に通わせ、詩や小説、随筆を書かせたた。三十六が蔵の本を読むことを許した。

使用人たちは店主を愛し尊敬し、彼こそ「本当の父親だ」と語り合った。

一九二三年(大正十二年) 二十歳。

 九月一日関東大震災。山本周五郎商店も被災。解散となる。

一九二六年(大正十五年・昭和元年)二十三歳。

 震災後、関西に転居した。神戸で『須磨寺附近』の着想をもった。それが『文芸春秋』四月号に掲載され、文壇デビュー作となった。「山本周五郎」というペンネームは、このとき初めて使った。

 ペンネームにまつわるエピソードが伝えられている。三十六が自分の住所として「山本周五郎商店」と書いたのを編集者がペンネームと勘違いしたために「山本周五郎」という名前になった、という説がある。

 一方、三十六が恩人である店主の山本周五郎に敬意を表してペンネームを付けたという説もある。

一九三一年(昭和六年)二十八歳。

 東京馬込東に転居。馬込文士村の住人となる。

一九四三年(昭和十八年)四十歳。

 第十七回直木賞に『小説日本婦道記 』が推薦されるも辞退。

 辞退の理由は定かではないが、周五郎はこう語っている。「私はつねづね各社の編集部や読者や批評家諸氏から、過分な『賞』を頂いている」。編集者や読者から高く評価されることこそ、何にも勝る「賞」であるという意味だろう。周五郎はこの後も、すべての賞を辞退している。

一九六一年(昭和三十六年)五十八歳。

 文芸春秋読者賞に『青べか物語 』が推薦されたが辞退。

一九六七年(昭和四十二年)

 二月十四日、肺炎と心臓衰弱のため死去。享年六十三歳。

 歴史・時代小説から現代小説まで非常にたくさんの作品があり、映画化もされている。特に江戸時代の庶民の生活を描いた時代小説は、非常に多くの読者に愛され続けている。私のその一人である。