山本周五郎に学ぶ 4
独自性と新しい発見をそなえているかどうか
山本周五郎は、小説のもっとも大切な要素として、こう述べている。
『芸術性などということは本当はどっちでもいいので、その小説に作者の「書かずにいられないもの」があり、読者にもう一つの生活を体験したと感ずるくらいに、現実性のある面白さがあれば上乗だと思う』
それが書かれていることを前提として、芸術性があるかどうかについては「独自性と新しい発見をそなえているかどうか」だという。作家が「かかずにいられないもの」には「新しい発見」があり「独自な価値」がある。そういうものであるからだ。
ただ、それを頭で考えている段階ではそれは書き手だけの「主観的な価値」、つまり思いこみでしかない。それが読み手からも評価されるには、小説として表現されなければならない。そのときはじめて客観的に判断され、価値が決まる。
周五郎はまさに小説の価値の根本を簡潔に述べている。
『小説に限るまい。画でも音楽でも、芸術性とは独自性と新しい発見をそなえているかどうか、ということではないだろうか。いかに凡俗な作者であっても、或る主題について「書かずにいられないもの」があるとすれば、それはその作者にとって発見であり、他のいかに偉大な作者にも及ばない独自な価値がある筈である。もちろんその「価値」は主観的なもので、それがまさしく表現されて初めて客観的な価値判断の対象となるだろう。私はむずかしいことは知らない。芸術性などということは本当はどっちでもいいので、その小説に作者の「書かずにいられないもの」があり、読者にもう一つの生活を体験したと感ずるくらいに、現実性のある面白さがあれば上乗だと思う』(『山本周五郎全エッセイ集―定本 (1970年) 』、中央大学出版部刊、「小説の芸術性」、一三頁)
山本周五郎は作家仲間から「曲軒」というあだ名をつけられていた。「へそまがり」という程度の意味である。周五郎はそのあだ名を嫌ってはいなかった。その理由をこう述べている。
「なぜかというに、我田引水流にいえば私のものの考え方や観察の仕方がたとい僅か一寸五分にもせよ他の人たちとは違っているということになるからである。これは他の人たらの書かない主題を他の人たちの書かないように書きたい。少なくとも他の人たちの書くものとは肌合の変ったものを書きたい。という私の謙遜な立場を支持されたものと考えるのにかなり好都合だと思う」(前掲書、「小説の芸術性」、一四ページ)
へそまがり、頑固者、変わり者などと呼ばれる人は、ほんのわずかであっても「他の人たちとは違っている」ということになる。それは作家という立場から見ると、けなされているのではなく、むしろほめられていると考えることができる。「だからこそ、独自性のある小説がかけるんだ」と。周五郎はそう思っていたのである。
その「独自性」について考えると、度を超した独自性は芸術性を逸脱することになる危険性もある。
このエッセイの中で、コスモスの花の話が出てくる。その花の形は一つひとつに特徴がある。ある日、周五郎は「花弁のない花」を発見した。これもコスモスの独自性の主張なのかもしれないと思った。
そしてこう考えた。
『ここでは独自性ということを考えたのである。「花弁のない花」というのはコスモス自身としては大いに個性を発揮し新しがっているつもりかもしれないが、そこまで飛躍すると人はもはや「コスモスの花」と見なくなるであろう。ということなので、この点はまことにむずかしいものなのである』(前掲書、「小説の芸術性」、一四頁)
そこまで独自性を発揮してしまうと、人はそれを花とは見なさないだろう。その限度がむずかしいのである。
この連載も今回が最終回である。山本周五郎の次の言葉で締めくくりたい。
「いかなる思想、いかなる新らしい社会主張にも左右されず、いつでも文学は文学として、どんな権力にも属することなく、自由に人間性を守ってゆく。この情熱を失なわないようにしていきたい.これが文学であろうかと私は思うのでございます」(前掲書、「歴史か小説か」、五八頁)
作家は常に精神的に自由でなければならない。実社会には官僚機構や組織や団体がある。その中では思想、風潮、社風、社会主張などがまかりとおっている。作家はそういうものに流されてはならない。ましてそういう権力に媚びてもいけない。自分で考え、自分で判断しなければならない。「自由に人間性を守ってゆく」とは、そういうことを言っているのである。
たとえば学校では偏差値偏重主義がある。校風、校則、教師の価値観に縛られてしまう。会社に入れば「会社人間」になるように「教育」される。会社人間としての「常識」が強いられるようになる。たとえむだな仕組み、学歴主義、派閥主義、年功序列、努力や能力が評価されない制度、無能な上司たちがはびこる体制などがあったとしても批判できない価値観、「長い物には巻かれろ」「寄らば大樹の蔭」といった価値観が押しつけられる。
それらの矛盾を批判したり、疑問を持ったりするだけで、周囲の人間から疎外され、いじめを受けたり、「無能」な者というレッテルを貼られ将来をつぶされたりする場合もある。
ほとんどの人がいきなり作家になって暮らしていけるわけではない。人生の途中では学校があり、会社がある。それにいろんな制度・組織・団体、その他のしがらみが関わってくる。
そういったものに染まらず、媚びず、作家としての自由な心を守り、他人の人間性も守っていく。それを実行していくのは非常に強い精神と情熱が必要なのである。周五郎はまさにその過程が文学であると言っているのだろう。