津本陽に学ぶ
十四年間の作家修業を経て直木賞受賞
最近、津本陽の歴史小説、時代小説に興味がわき、目についた順に読んでいる。彼の歴史小説の特長は、他の著名な作家と同じように歴史的事実を徹底して調べ上げていることが一つ。もう一つは実体験を重視していることだ。私はそこに感銘を受けた。
あたりまえだが、戦国時代や江戸時代を体験することはできない。ある流派の武術を修行して、その真髄に迫る。実際に羽織袴を着、日本刀を差してみる。日本刀を使って実際に藁や豚の胴体を試し斬りしてみる。そういうことは体験できる。津本陽は自分で体験しながら、当時の侍の心境を理解しようと努めている。そういう姿勢が好きである。
津本の本を探していたら『危地に生きる姿勢』(講談社文庫)という本に出会った。これは「人生の前途にたちふさがる敵に向い、回避せずに立ちむかおうとする衝動」を解き明かしたものである。昔の武士たちの生涯に触れたエッセイもあれば、自分の半生に触れたものもある。津本の半生にも興味があったので、これはいい本に出会えたと思った。以下その本から知り得た話である。
津本陽は三十四歳のとき、小説を書こうと本気で考えた。大手化学会社で勤務歴十二年。居心地は悪くなかった。
ある日、ふと考えた。平社員の自分が重役まで昇りつめるためには、人生の大半を使いはたさねばならない。急に会社勤めがばからしくなった。「どんなに出生した者も、どんなに蓄財した者も、死ねばおしまいである」と考えた。会社にいるのが苦痛になった。
津本は会社をやめて小説を書くと妻に言った。妻の反応については書かれていない。残念である。
会社をやめて和歌山の実家で暮らすことにした。貯金が二〇〇万円あり、退職金が一〇〇万円入る予定だった。当時の貨幣価値で、無職でも五、六年は暮らせる金額だった。できれば小説に専念するために十年暮らせる資金が欲しかった。株式相場に手を出した。信用取引を始めた。最初は儲かったが、暴落で三五〇万円の損を出した。結局無一文になった。このときの妻の反応も触れられていない。
和歌山に帰った津本陽は、同人誌「VIKING」に参加した。一九六四年のことだ。不動産会社を設立し、経営の傍ら小説を書いた。
翌年、同人誌に掲載した『丘の家』が一九六六年下期の直木賞候補に推薦された。惜しくも受賞は逃した。
一九七二年から書き始めた『深重の海』という作品を一九七八年に完成させた。七〇〇枚近い作品になった。同人誌に掲載したら、新潮社から出版したいという申し入れがあった。直木賞候補に推薦された。そして一九七八年、第七十九回直木賞を受賞した。四十九歳のときである。
ここから後の津本の活躍は紹介するまでもない。直木賞を受賞するまでの十四年間は、長い下積の時代だった。前に直木賞候補になったとはいえ、同人誌以外で作品を発表するチャンスはなかったのだ。
長い修行時代に津本陽が会得したものはなんだろうか。
「自分の身辺に材をとり、過去の経験をなぞる作品では、内部の空虚を埋めるはたらきが乏しいという考えが、しだいに強くなってきた。(中略)。フィクションの内懐は、想像していたよりも広く、深かった。そこでは思うままに泳ぎまわることができる。自分の内部をストレートに掘り下げているときよりも、架空の人物を動かしているほうが、内心をあからさまに表現できるということが、よくわかった」(前掲書、一〇八頁)。
『深重の海』を書いていたときの心境である。この作品のテーマについては、実際に本を読んで汲み取っていただきたい。
彼はまたこう述べている。
『小説を書くうえで、自戒しなければならないのは、文章に「いやしい」においのつくことである』(前掲書、一〇九頁)。
そうならないためには信頼できる批評者を持つことである。文学に深い関心があり、書き手に媚びるわけでもなく、その才能に嫉妬するでもなく、見識にうぬぼれているわけでもない。それでいて書き手の成長を喜んでくれる。そういう信頼できる批評者を持つことである。無名の時代、それはたいていの場合、妻か夫になる。プロの作家になったら良き編集者を持つことである。