上ノ山 明彦

  『私の歳月 (講談社文庫)   池波正太郎


 「池波正太郎の世界」という雑誌が、2009年12月3日、朝日新聞社から創刊された。それを機に池波正太郎という作家を研究することにした。すると、イメージとはだいぶ違った池波の素顔が浮かんできた。そこには非常にたく さんの発見と学ぶべきことがあった。
 創刊号は「鬼平犯科帳」の誕生秘話とともに、池波の人生にも触れている。池波正太郎は、浅草で生まれ育った。いわゆる下町育ちである。十三歳で証券会社に奉公に出された。つまり小学校しか出ていない。戦前のことだ
から、それは庶民の家では普通のことだった。池波は、特に自分だけが苦労したわけではないと語っている(「私の歳月」、講談社文庫)。  株屋ではかなりお金が儲かったようで、遊び歩いたり食べ歩いたりして、ぜいたく三昧の日々だったという。池波の映画好きや美食嗜好は、この当たりにルーツがあるのだろう。
 ただ遊んでばかりいたわけではない。この時期にジャンルを問わず岩波文庫を片っ端から読んだり、吉川英治や大佛次郎の時代小説を読んだりしていた。トルストイやドフトエスキーの全集も読破したというから相当数読んでいたようである。そのことは本人のエッセイや雑誌記事にある関係者の話で知ることができる。この時期、芝居や映画も相当な数観たと言っている。この頃作家になる夢が育まれたのではないだろうか。
 この多感な時期に池波の芸術的素養が形成されていったものと思われる。
 そういう日々も、やがて時代の流れに打ち砕かれていく。戦争が始まり、池波も徴兵される。この時期のことを本人が書いている。軍隊に取られることがわかっていたから、軍隊生活を耐え抜くために、池波はきつい山歩きをたくさんして体を鍛えたという。
 彼は海軍兵学校に配属となった。そこには新兵をいじめること好きな上官がいた。池波はそのいじめにがまんがならずたてついてしまった。その仕返しで、彼は下の歯を全部折られてしまった(「新私の歳月」)。
 逆に、この人の命令なら死んでもいいと思える上官にも出会っている。その人は寒さで凍える新兵の手を取って、自分の手でさすって温めてくれたという。
 こうした出来事を書いたエッセイは、池波正太郎の実直な人柄をよく表していると思う。
 戦争が終わり、戦場から無事帰ってきたが、占領軍の命令で株の売買は禁止されていた。仕事を探していたときにふと新聞で戯曲募集の記事を見た。「ひまだったから応募してみたら、それが入選した。好きな芝居の世 界で生きていけるならと、劇作家になる決意をした」と、本人のエッセイでいう(私の歳月)。
 これについては疑問がある。池波は「少年倶楽部」に掲載されていた吉川英治や大佛次郎の小説を読み作家になる夢を持った。「それは遠い遠い夢だった」、と書いている。「ひまだったから応募した」というのはメディアへのリップサービスだったのだろう。
 劇作家になった池波正太郎は、この世界で人生の師となる作家、長谷川伸と出会い弟子にしてもらう。それがその後の池波の人生に大きな影響を及ぼすことになった。 池波が小説を書くようになったのも、戯曲だけでは食えない、小説を書けという長谷川伸の勧めによるものだ。とはいえ、作家になることは、子供の頃に「遠い夢」として持っていたのだから、いい機会が訪れたということなのだろう。
 池波は短編作品を発表するうちに、1957年『錯乱』で第43回直木賞を受賞した。それでもしばらくの間は、劇作家の仕事が主体だった。転機が訪れたのは、雑誌に「鬼平犯科帳」を連載し始めてからだ。これが大評判となった。
 こうして池波が作家になるまでの足取りを大まかに追ってみた。次回は彼の作品に込める想いや人生観を追ってみたい。そこには実に深みがある話がたくさんある。

<参考文献>
私の歳月 (講談社文庫)
新私の歳月 (講談社文庫)