上ノ山 明彦

 『街道をゆく 司馬遼太郎

 私の楽しみは、司馬遼太郎の『街道をゆく 』シリーズをすべて読破することだった。カバンの中には、いつも文庫本の『街道をゆく』が入っていた。電車の中やちょっと空いた時間に、せっせと読んでは感慨にふけっ ていた。
 全部で43冊あって、1冊読み終えると、「もうすぐ終わってしまうのではないか」と何か寂しい気持ちになったものだ。永遠に読み続けていたかったのである。
 なぜこれほど司馬遼太郎のこのシリーズにひかれたのだろうか。それを みなさんに説明すれば、何かの役に立つだろうと思う。
 結論から言えば、歴史小説、時代小説、推理・SF小説などジャンルを 問わず小説家を目指す人、ノンフィクション作家、エッセイストを目指す 人、つまりもの書きを目指す人は、このシリーズをぜひ読んでほしい。  そこには何が書いてあるか?司馬遼太郎に教えられることはたくさんあ るが、一つずつ説明しよう。
 題材や資料の集め方と読み方がわかる。司馬の読書量は、恐ろしいくら い豊富である。彼がある地方に目を付けたとしよう。その地方に関係する 地方史・誌、民話、学術書、美術書(絵画や陶芸)、食文化など、あらゆ る資料を読む。彼にとっては関係する小説さえも資料になってしまう。
 そういう作業の中で、司馬は世間にあまり知られていない人物を発見す る。その人はどういう歴史があるか?どういう足跡があるか?どういう性 格だったか?周囲の評価は?どういう文化の中で育ち、死んでいったか?、 というように、司馬は思考をめぐらす。その分析方法は元新聞記者だけあっ て、非常に科学的である。
 ところが、司馬は突然空想(彼は「妄想」と書いているが)の世界に入 り込んでしまう。歴史上の人物が目の前に現れ、生活ぶりを見せてくれる のだろう。
 歴史は資料や文献によって、人物の足跡を見せてくれる。だが、すべて ではない。その日誰と会い、何を思い、どういうセリフを吐いたか、すべ て資料が残っているわけではない。自分の想像力で、その人物を生き生き と描いていくのが作家の役割である。
『街道をゆく』シリーズには、いたるところで司馬遼太郎が作家として、 どういう想いで文献を調べ、その地方を見ているかがよくわかる。彼はす ばらしい人物に最大の関心があり、その人の人間模様はもちろん、その人 を育て上げた歴史と文化と周囲の人間関係を知りたかったに違いない。
 もし彼の命が長らえることができたなら、我々が知っている歴史上の人 物だけでなく、あまり知られていない人物についても、きっとたくさんの 歴史小説を書いたに違いない。『街道をゆく』はそういう示唆にあふれて いる。
 小説だけでなく、このシリーズは紀行文の書き方を教えてくれる。それ はノンフィクションのすべてにつながるものである。取材の仕方や資料の 分析の仕方、事実の書き方について、これほど的確に教えてくれる本は少 ない。ノンフィクション作家をめざす方にも強く推薦したい本だ。
 エッセイという面からも、このシリーズは優れている。司馬は時々、自 然の美しさに感動し、それを素直に表現する。時には出会った人々の心の 優しさ、広さに感動し、それを素直に書く。
 たった今ジャーナリストの冷徹な目で物事を分析していたと思ったら、 すぐにエッセイストに変身して、美しい自然や人の中に溶け込んでしまう のである。
 不思議な人である。1人の人間の中に、作家と歴史家とジャーナリスト とエッセイストが同時に存在し、それが一連の原稿の中で、何の違和感も なく様々なスタイルで表現され、我々に感動を与えているのである。こう いう作家は、日本の歴史の中でそういないと思う。
 司馬遼太郎の天才を語るには、誌面が足りない。最後に、私が最近勉強 になったことを紹介してシメとしたい。
 司馬は自分が政治的な発言をしたり書いたりすることを嫌っていたよう だ。だが、戦争経験者として伝えなければならないこともある。彼の作品 には、常に民族とは何か?民族の誇りとは何か?民族同士の争いはなぜ起こ り、なくならないのか?というテーマがある。その内容の深さは、ここで 紹介できるものではない。
 日本では「えひめ丸」という不幸な事故が起き、反米感情が高まった。 そしてワールドトレードセンターなどアメリカに対するテロでは、 アメリカ政府に諸手を上げて賛同しているかのようだ。政治家やテロリス トは国民を煽動していれば済むが、犠牲になるのはいつも罪もない市民で ある。よく考えなければならない。
 民族というものはそう単純に割り切って考えることはできない。自分の 民族の歴史と文化を深く理解し、他民族の歴史と文化も同じくらい理解し ないと、不幸な関係しか生まれないだろう。こういう時代だからこそ司馬 遼太郎に学ぶべきことがたくさんある。もの書きには絶対読んでほしい本 である。