上ノ山 明彦

藤本義一 『人生の賞味期限』

 昔「11PM」という深夜番組があったことをご存じだろうか?大人向け の番組で、大橋巨泉も司会者の一人だったことがある。藤本義一はすでに 有名作家であったが、その番組の大阪側司会者としても活躍していた。私 はその印象が強すぎて、彼をなんとなく作家として見ていなかった。
 藤本義一に対する印象ががらりと変わったのは、ちょうど一年くらい前。 フジテレビのBS番組から出演依頼があった。それは情報バラエティ番組 で、書評のようなコーナーがあり、そこで新刊を紹介するというもの。そ のために時間をかけて本を探し、読んだ。
 話がそれるが、テレビ番組というものはいろいろな意味で私には合わな いということがそのときわかった。その理由はいくつかあるが、本番では やはり視聴者に受けるように話さなければならない。それもなるべく自然 に。そういう努力をすることが制作者と視聴者に対するサービスのような ものなのだ。私はそういうことがあまりに苦手すぎる。一緒に出た書評家 の茶木さんなどはその辺を理解されているようで、出演前は寡黙な人だが、 本番では身振り手振りを交えながら、ここがよいとズバリ発言していた。 他の出演者からは「そこまで言う」という笑顔のリアクションが返ってき た。こういう姿勢が出演者には必要なのである。
 言い訳を言うと、そもそも私は短編塾の準備で時間がなく、他の人に出 てもらいたかったのだが、様々な条件があり、また宣伝にもなるからとい う理由で私が出ることになった。だが、テレビは準備にかかる時間が長す ぎる。往復の交通と待ち時間だけで8時間近くにもなった。本探しを合わ せると丸2日かかったことになる。
 そういうことがあって「もう声がかかっても私は出ず、他人にお願いし よう」と心に決めたが、幸か不幸か、私の出番に対する評判が悪かったの か、そういう声はかからなくなった。(合掌)。
 話を戻そう。藤本義一(『人生の賞味期限』岩波書店刊参照)を取り上 げてみたい。著書は彼の自伝的エッセイである。1933年、大阪生まれ。 1958年大阪府立大学経済学部卒業。宝塚映画入社。シナリオ執筆を経 て、作家に。1974年、「鬼の詩」で直木賞受賞。1965年〜90年、 「11PM」の司会者。これが略歴である。
 1941年12月が太平洋戦争へ突入した年であるから、彼は7,8歳 の頃から5年ほど戦争を体験したことになる。本書によると、彼は中学1 年のときに終戦を迎えた。45歳の父は職と店を失い、絶望の底で肺病に かかった。母は病弱だった。
 家計を支えるために、彼は闇市で大人と互角に取引した。その経験は彼 の人生観に大きな影響を与えた。金のむなしさ、金に群がる人間の醜悪さ、 そういうものを多感な少年期に経験した。そこから逃れるために旅をした。  昭和33年(1958年)、藤本義一は川島雄三監督に弟子入りする。 そのときのやりとりが実にいい。
監督「プロとアマはどう違うのですか?」
藤本「プロは嫌なことでも進んでやるから好きなことができるのであって、 アマは嫌なことを避けるから好きなこともできない者です」
 なるほど、本質を突いた言葉である。この返答がきいたのか、彼は弟子 入りを認められた。
 その後作家としても成功をおさめた藤本義一だが、阪神淡路大震災では 洋服箪笥の下敷きになり、九死に一生を得ている。また、脳のスキャンで は、確実に脳幹の空洞が広がっているという。時間が経てば痴呆症に陥る かもしれないのである。
 そういう様々な人生経験を通して、藤本義一は言う。「生かされている 自分」。「自分の意識だと思っていたことは慢心、傲りに過ぎないと気付 いた」。そのことを素直に受け止めて生きていけばよいということなのだ ろう。誤解のないように断っておくが、藤本義一は欲得に絡む宗教団体が 嫌いなようである。(宗教そのものを否定しているのではない)。彼の言 葉は人生哲学として受け取るべきだと思う。
 まだまだ私などは、心の奥底で「自分の意志で生きている」と考えてい るようだ。「この未熟者!」という声が聞こえてきそうである。