上山 明彦

開高健 『地球はグラスのふちを回る』

 開高健は自分にとって文学の意味を「助けてくれという悲鳴」であると述べている。その意味を探ってみたい。
 開高健は自分を人間嫌いであるし、絶望して自殺したいという願望に苦しめられてきた、と語る。彼は小説を書くことによって、生きていくためのかすかな希望のようなものを持ち続けることができた。何かしら他人に伝えたいことがあって、それが小説を書くという行為につながる。その逆で、小説を書くという行為によって、何かしら他人に伝えたいことが出てくる。そうやって人とのつながりがかろうじて保たれていく。そういう生活の中では、限りなく絶望に近づくことがあっても、真に絶望することはない。そういうことなのである。

 「私は人間嫌いのくせに、人間から離れられない。ただ、人間嫌いだけになってしまうと、小説なんて書く必要がないよね。小説家というのは、どんな悪魔的な文学、どんなに冷酷無残、どんなにニヒリスチック、ペシミスチックな小説を書こうとも、ものを書いてるかぎり、彼はヒューマニタリアンさ。なぜなら、彼の書く文字というものは人間につながってるから。彼が意識してないとしても、誰か他者に向かって何ごとかを訴えているんで、訴えているかぎり、彼が意識していないとしても、彼は絶望者であるとはいえないわけだ。だから、絶望という名の希望をどこかに持っているんだということになる。これが認識論の出発やな。
 だから、文学には絶望ということはあり得ない。もし、ほんとに彼が絶望するなら、何も書かないはずだ。...(中略)...真の絶望者は、何も言わない、何も書かない...。」(『地球はグラスのふちを回る』、231ページ。開高健著、新潮文庫)。

 開高健がなぜこれほどまでに絶望したり人間嫌いになったりしたのだろうか? これまでのささやかな研究のおかげで、私はその答えに多少なりとも近づくことができたのではないかと思っている。その話は次回に回すとして、引用で紹介した『地球はグラスのふちを回る』の中にも、その一端を垣間見ることができる。
 開高健は49歳の時、初めてニューヨーク市を訪れた。そのときの印象が本書の中で、感性豊かに描写されている。私は33歳のときにニューヨーク市に住んだことがあるが、とてもこういうエッセイは書けない。彼の感受性にただ頭をうなだれるのみである。
 もちろん彼と共通の「ため息」もある。開高健はこのときもうオジサンであったし、私も若者ではなかった。
 「19歳のときにここへくるべきであった」(同書、271ページ)。
 20歳前後といえば、野心や期待や希望や情熱にあふれ、お金がなくても、苦労しても、どんどん先に進んでいける年頃である。そういう感性豊かな年代にこそニューヨーク市やパリなどの大都会はふさわしいのである。年を取ってから訪れても得ることはあるが、若い時に得るものとは質的な違いがある。そのことを開高健は言っているのだ。
 「いい旅、いい経験をしなさい、若いうちに」(同書、240ページ)。