上山 明彦

開高健 『輝ける闇』

 新聞で若い人たちの自殺報道を読むたびに、やるせない想いに浸ってしまう。自殺願望を持っている人々には、一度開高健のエッセイや作品を読んでほしいと思う。それによって何か救われるものがあるというよりも、生きていくための手がかりのようなもの−希望というほど大げさなものではないが、そういうものが見つかるのではないかと思う。
 開高健もまた若いときから鬱病に苦しめられ、自殺願望を持っていた人であった。
 「私は若いときから始終、自殺衝動に襲われていたけれども、自殺はできなかった。チャンスはいくらでもあったはずなのに、どのひとつもつかめなかったので、いまこの辺でこんなことをして暮らしている。」(『風に訊け』、278ページ。集英社文庫)

 鬱病には、社会人になってからも作家になってからも苦しめられた。開高健はどういうきっかけでそこから立ち直っていったのだろうか?
 「去年の晩秋頃から冬いっぱい、そして今年の春おそくまで私はとらえようのない憂鬱症にたれこめられて、はなはだしい衰弱に陥ちこんでいた。私の場合にはその発作は珍しいことではなく、小さいのはいつでもサイクルをつくって巡ってくるが、大きいのはここしばらくあらわれなかったのである。人と会ったり話をしたりするとき私はにこやかに談笑できて正常そのものなのだが、そのあとでひとりになると、たちまち人や物や言葉から地崩れを起こしてすべりおちてしまうのである。家にたれこめ、毎日、ただ朦朧と眼をひらき、もっぱら鳥獣虫魚に関する本だけを読み、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、いっさいを切断してすごした。バーにも出没せず、パーティにも出ず、午後おそくなると二階の窓際で海綿のようにウィスキーを吸った。黄昏が手に沁みてくるのを感じながらすわっていると、どこか野菜畑のあたりでワッ、ワッと拍手喝采する声のあがるのが聞こえてくるようであった。
 (中略)。そのあとでたまたまいい素材と出会うことができたので、ただ自分の憂鬱を晴らしたい目的だけで速歩の文体でかけぬけるようにして長篇を書いた。医者にも見せず、病院にも入らず、薬ものまず、どうにかこうにか迫り浸してくる潮をうっちゃることができたのである。」(『フィッシュ・オン (新潮文庫 草) 』、21、24ページ。新潮文庫)
 長い引用で恐縮だが、これくらい引用しないと開高健の落ち込んだ状態が理解できないだろう。彼が立ち直るきっかけとなるのは、いつも「いい素材と出会うこと」である。そこから小説を書く力が少しずつ蘇ってくるのだ。うちひしがれた精神状態の中で、これだけは書き残しておきたい、という想いが、頭の中にたれ込めた霧を吹き飛ばしていくのである。これはあくまでも私の想像だが。

 開高健にとって小説とは、どういう存在なのだろうか?
 「小説は文学はつづめていって一言で要約すると、助けてくれという悲鳴であることが多いのです。そうでない文学で立派な作品もたくさんありますし、そういう文学もなければないのですが、私自身の感想としては、助けてくれのひとことだといいたいのです。」(『読ませる話』、43ページ。文藝春秋)。
 エンターテインメント系小説に代表されるように、おもしろおかしく、あるいはハラハラドキドキを楽しむ作品もあれば、甘く切ないラブロマンスに浸るための作品もある。
 そういう作品の存在を認めた上で、開高健は自分の文学は「助けてくれのひとこと」だと言い切っている。この言葉に、開高健の文学のすべてが語りつくされている。その解説を、私が今この欄で行おうとしているわけで、少々無謀な試みなのかもしれない。

 いったん原稿を書き始めると、開高健はその完成のために、精神と肉体がぼろぼろになるまで書き続ける。
 「昆虫は人間がつけたランプの火に向かって飛びこんで焼け死んでしまう。私は私という存在から火を発して私を焼くのである。焼きつくしたいと思っているが、焼きつくせないでいつも手前で帰ってくる。」(『風に訊け』、217ページ。集英社文庫)
 開高健はいったい何を書こうとしていたのか?彼がユダヤ人虐殺の現場アウシュビッツの取材で見たもの感じたものは何か、ベトナム戦争に従軍して見たもの感じたものは何か、アフリカのビアフラ紛争で見たもの感じたものは何か。開高健のエッセイには、たとえそれが釣りのエッセイであったとしても、その辺りの断片がちりばめられている。我々はその断片を拾い集めるか、小説そのものから直接感じ取るしかない。
 開高健の小説の中で、必ず読んでほしいのは、『輝ける闇 』 (新潮文庫)だ。ベトナム戦争に従軍して取材したときの体験を元に書かれた小説だ。
 「二月十四日−−は、私の命日である。
 一九六四年の二月十四日、当時ベトナム戦争の取材で、南ベトナム政府軍に従事していた秋本啓一と私は、ジャングルでベトコンの急襲を受けて、二百人中十七人しか生き残らないという、九死に一生をえた。ホントなら、あそこで死んでてなんの不思議もなかったくらいのものだ。
 それから秋元と私は二月十四日を自分たちの"命日"として、毎年ふたりで酒をくみかわしていた...」(『風に訊け』、375ページ。集英社文庫)。
 死んでもおかしくなかったという極限の体験は、その後の開高健の作家活動に大きな影響を与えている。

 開高健の書くテーマは、一言で表現すると「人間とは何か」である。それを高所から見下ろして書くのではなく、現場での人間のどろどろした生活を描き、残虐さや醜さを描き、それに悲鳴を上げ、反対に人間の強さ、美しさを描き、それに感動し、それらをすべて総合した生身の人間そして社会というものの正体を描き出そうというものである。
 こんなエピソードがある。ベトナム戦争当時、開高健は政府軍とベトコンが激戦を繰り広げている最前線の川の中間にある島に行って、魚釣りを始めた。島の住民たちは代わる代わり穴場に連れて行ってくれ、大歓迎してくれた。誰も不謹慎だと非難するものはいなかった。(『オーパ、オーパ』、280ページ参照。集英社文庫)。
 このエピソードは開高健の作家としての感性を象徴するものではないだろうか。