三島由紀夫 『文章読本』
三島由紀夫という作家は、文学に高い芸術性を求めた作家である。その方向性やテーマは読者によっては好き、嫌いがあるだろう。そのことはひとまず本稿では問題としない。三島由紀夫がどのような想いで文学作品をとらえていたか?それがよくわかる本が、この『文章読本 (中公文庫)』である。
短編と長編の違い、各種の描写方法、翻訳や評論の文章などについて、文豪たちの文体を紹介しながら詳しくていねいに解説している。いろいろな人が文章読本を書いているが、本書はもっとも優れたものではないかと思う。
三島はこう言う。
「私は短篇小説はかり書いていたときにほ、文章のなかに凡庸な一行が入りこもこと
がひどく不愉快でした。しかしそれは小説家にとって、つまらない潔癖にすぎないこ
とに気がつきました。凡庸さを美しく見せ、全体の中に溶けこますことが、小説とい
うこのかなり大味な作業の一つの大事な要素なのであります。「月が上った。屋根の
ひさしが明るくなった。二人は散歩に出た」というような文章を書くときに、以前の
私なら、そこへさまざまな自分の感覚的発見をちりばめることなしには書くことがで
きなかったでありましょう。月には形容がつき、ひさしの明るさには、ひさしの明る
さ独特の色調の加減が加味されたでありましょう。しかし私はいまやそういうところ
に労力を惜しんで、むしろ自然な平坦な文章のところどころに結び目をこしらえるこ
とに熱中します。」(同書、190ページ、中公文庫
そういう文体を自分の理想としながらも、それと相反する要素を持つ文体も芸術的価値があることを否定しない。
本書を読み終えて感じたことは、自分の理想とする文体へのあくなき追求がもっとも大切であるということ。文体というのは作家の一つの体系であるから、一つの型がもっともすばらしいということにはならないということ。美文、修飾過多の文、奇をてらった文は論外としても、作家が自分の描きたいことを最大限表現するのに必要不可欠であるならば、様々な方法がありうるということだ。
そういう示唆に富む本である。
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