日本推理小説界には、松本清張という巨匠がいる。この作家の人生を知る手がかりとなる本はいろいろあるが、本人が書いた自伝『半生の記』(松本清張著、新潮文庫)をまず読むべきだろう。以下その本をもとに、清張の生い立ちを探ってみた。 清張は明治42年12月21日、福岡県小倉市で生まれた。清張の前に二人の姉がいたが、いずれも生まれてすぐ亡くなっていた。その後、清張はずっと一人息子として重い宿命を背負うことになる。次の言葉がすべてを物語っている。 「少年時代には親の溺愛から、十六歳頃からは家計の補助に、三十歳近くからは家庭と両親の世話で身動きできなかった。私に面白い青春があるわけではなかった。濁った暗い半生であった」(『半生の記』、18ページ) その頃、母親は小さな餅屋を営んでいた。父親は相場師、示談屋、露天商など次から次へと仕事を変え、いつも生活は苦しかった。後に両親は食堂を始めた。最初は景気がよく人も数人使うほどだったが、やがてさびれていった。 清張は旧制高等小学校を卒業すると、経済的な理由からすぐに就職しなければならなかった。彼の学歴は「小学校卒」である。このことが作家として成功するまで、清張の人生に重くのしかかることになる。 最初の就職先は電機会社の給仕。仕事の内容事務補助、つまり雑用だった。清張ここに勤めた3年の間に、有名小説を片っ端から読んだ。それが後に作家となるための栄養となったようだ。八幡製鉄所の友人が文学好きであったことから、文学仲間とも関わるようになった。この会社が清張18歳のときに不況で解散になる。転職先を探した。ある地方新聞記者の面接を受けに行くと、大卒しか取らない。小学校しか出ていない者は資格がないと、門前払いをくった。 清張はある日「画工募集」という貼り紙を見つけた。版下工の見習いだった。清張は絵に自信があったので、さっそく応募した。とはいっても版下工としてはど素人だったから、年下の同僚からこき使われるはめになった。そこもすぐに辞めた。 次に移った印刷所で、同じ版下工ながらも広告デザインの仕事を受け持つようになった。この仕事がその後の人生を変える大きな要因になったのだから、不思議なものである。広告の図案を描く仕事が増えてきた。印刷所でも重用されるようになった。仕事は多忙で、夜11時前に帰ったことはなかった。帰ってからも習字の練習をした。清張は27歳になっていた。 「私は自分の若いときをふりかえって、いまさらのように愉しみのなかったことに索然となるが、私は自分の生活を早く確立したいことで一心であった」(前掲書、75ページ)。 昭和11年(1936年)末、清張に転機が訪れた。印刷所の当主が死んだ。清張は収入を増やすために独立を考えるようになった。そんなとき、朝日新聞社が翌年小倉に西部支社を設立するという記事を見た。思い切って支社長に応募の手紙を書いた。面接の通知が来た。広告係に会いに行くと、採用ということになった. ところがそれは正社員としての採用ではなかった。出来高払いの専属契約だった。昭和12年の2月から独立し、朝日新聞と町の印刷所からの版下制作を請け負うことになった。新聞広告の扱いが増えるに伴い、朝日新聞に昭和14年に嘱託、同17年正社員として採用された。清張は30歳を過ぎていた。その後16年間、朝日新聞社に勤めた。途中3年間の兵役が含まれている。 清張は朝日新聞に勤務していた当時、あからさまな学歴差別と職業差別を受けている。このことはその後の清張の作家活動にも大きな影響を与えたと思われるので、少し詳しく述べておこう。 西部本社には東京本社から「幹部候補生」や次の出世を予定されたエリート、「島流し」に合った元エリートたちがやってきたが、現地採用組には現地での出世しかありえなかった。社員にも身分制があり、社員、準社員、 雇員の3段階があった。大卒が社員、旧制高校卒や専門学校卒が準社員、旧制中学卒は雇員(勤務期間で準社員扱い、社員扱い)となる。社員の集まりには社員、準社員だけが参加を許された。清張は請け負い契約から雇員、常勤嘱託の社員扱い、最後に社員となった。 清張がまだ嘱託にもなっていない頃、転勤してきた部長の歓迎会があり、雇員の中に入れてもらって参加した。清張が部長に話しを合わせて言葉をかけても、その人は適当に答えるだけであった。部長はその日に限らず、常にそういう態度を示した。 清張が正社員になってからも、上役のほとんどが同じ態度であった。「宴会の席では習慣的に部長や次長が末座にも酌をしに回ってくる。そこで部下の一人一人と短い会話を交わすのだが、私の前にくると、上役はついと隣の男に移るのだった。なかには、明らかに私の顔を見て面倒臭い表情をする人もいた」(前掲書、90ページ)。 学歴をベースにした社内の身分制度、さらには社内での仕事の内容などによって、清張は理不尽な差別を受けていたのである。憂鬱な生活が続いた。「仮に些少の才能があるとしても、それを生かす機会はない。貧乏な私は商売をする資金もなく、今さら、転職もできなかった。このまま停年を迎えるかと思うと私は真暗な気持になった」(前掲書、94ページ)。 昭和17年(1942年)12月、清張に「教育招集」令状が届いた。34歳になる月のことである。「教練」に不熱心だったのが招集の理由だったようだ。このときは3ヶ月間の教育で解除となった。 この3ヶ月間の兵隊生活で、清張は「新兵の平等」という発見をした。兵隊では社会的な地位も貧富も年齢も一切が帳消しとなる。みんな「平等」になる。それが「奇妙な生き甲斐を私に持たせた。朝日新聞社では、どうもがいても、その差別的な待遇からは脱けきれなかった。歯車のネジというたとえはあるが、私の場合はそのネジにすら価しなかったのである」(前掲書、97ページ)。 昭和19年(1944年)6月、再招集されて入隊。衛生兵として朝鮮半島に渡った。2年間の兵役を終えて帰国した清張を待っていたものは、年老いた両親と妻子の扶養だった。新聞社が開店休業状態だったので、帚販売の副業に精を出した。 昭和23年頃から新聞も正常な紙面に戻ってきた。副業を辞め、会社勤めに専念することになった。清張は39歳になっていた。絶望的な毎日が復活した。 「内職もないときの日曜日は、どこに行くあてもなかった。家に居てもいらいらし、外に出ても空虚さは満たされなかった。人の集る街なかを歩いていても、わけもなく腹が立つだけだった。将棋や麻雀をしても、仕事をしていても、私の額からは冷たい汗が流れ、絶えずタオルが必要で、仲間に笑われた。神経衰弱になっていたのかもしれない。夜もあまり睡れなかった」(前掲書、168ページ)。 同じページの最後に、「ただ苛立たしい怠惰の中に身をひたしていた。心はとげとげしいのに、身体はけだるく、脳髄はだらけていた」ともある。家族を養う重圧と貧乏、会社内の差別待遇、将来への悲観に苦しめられていた。 昭和25年(1950年)、またも転機が訪れた。週刊朝日が懸賞小説を募集していた。賞金が30万で、当時としては高額だった。たまたま辞書で目にした「西郷札」から空想が浮かび、それを小説に書くことにした。会社でも自宅でも時間があれば手帳に原稿を書きつけた。小説『西郷札』は3等に入賞し、その期の直木賞候補になった。 自信をもった清張は、『三田文学』を編集していた木々高太郎に掲載誌を送った。木々から執筆依頼を受け書いた『或る「小倉日記」伝』が芥川賞を受賞した。この原稿を書いていた頃は、6畳、4畳半、3畳の工員住宅に住み、妻子5人が隣の蚊帳で寝、その隣で老父母が寝ていた。 芥川受賞後、会社に頼み込んで東京本社勤務にしてもらった。家族も呼び寄せて、東京生活と作家活動が始まった。 松本清張が半生の中で体験した屈辱的な思いや将来への絶望感、焦りは、何も彼だけのものではない。過去の話でもない。 私がある出版社に勤務していたとき、20歳前の一人の女性が事務員として入社してきた。 彼女は「本当は編集者になりたかったんです。でも、私は高卒だからダメなんです。どこを受けても大卒でないと取らないと言われたのであきらめました」 と語っていた。私が社長なら学歴に関係なくやる気さえあれば雇うのになあ、と思ったものである。 大卒同士の出世競争や派閥争いもあるが、ここで問題としているのは、学歴によってその土俵にさえ上がれないことである。誤解のないようにお願いしたい。 今現在もたくさんの人が同じ思いを抱きながら生活しているはずだ。 会社社会での差別や差別的待遇は朝日新聞に限ったことではなく他の大企業にも多くの例がある。一般に「実力主義」と言われている外資系企業にさえもその例はある。皆さんがよくご存じの超有名外資企業で、私は実際にそういう実態を知っている。実名を出せば法的根拠がどうのこうのというややこしい問題になるので、出せないのが残念であるが......。 いや、そんなことはこの稿の本題ではない。私が伝えたかったことは、決してあきらめてはいけないということ。 絶望し、闇の中に沈没してしまったら、二度と浮かびあがれない。希望を捨てない限り、道はどこかで見つかる。 今道がなくても後で開けてくる。そのことを松本清張が実証してくれているではないか。 ●半生の記 (新潮文庫) ●西郷札 (新潮文庫―傑作短編集) |