上ノ山 明彦

司馬遼太郎 略歴と主な作品


 第二次世界大戦中、学生時代に徴兵され学徒出陣した一人の青年がいた。大阪外国語学校(現大阪外国語大学)モンゴル科に在籍していた青年は、そのとき「命はないもの」と覚悟した。
 青年は戦車隊に配属され、中国東北部のロシアとの国境付近に駐屯した。 「そうあきらめるように、毎日自分を訓練していた。頭上に鉄塊がある。それがおちてきたらおれは死ぬ。悔いはないか、ということを自問自答するのである」(出典『司馬遼太郎が考えたこと3』、30頁、新潮社刊)。 答はいつも「悔いはない」だった。
 戦争が終わって復員した後も、その訓練は続いた。その青年は新聞記者となり、やがて国民的作家となった。その人の名は司馬遼太郎。
 私は長い間、あれだけの膨大かつすばらしい作品を書き続けた氏の原動力は、いったい何だったのか?という疑問を持ち続けていたが、この話に その原点を見た思いがした。
 氏は戦場で何度も思い悩んだ。何のための戦争か?何のために自分は死ぬのか?日本製の戦車は装甲が薄く、敵の砲弾にいともたやすく打ち砕か れる運命にあった。こちらの戦車が打つ砲弾は脆弱で、敵戦車にかすり傷さえ負わせることができなかった。その戦車とともに、自分の命はつきよ うとしている。こんな戦車を誰がつくらせたのか?
 敗戦直前に、氏が所属する戦車隊は本土防衛のために日本に戻り、水戸に駐屯した。本土決戦になった場合の作戦を説く将校に、氏は疑問をぶつ けた。米軍が東京湾から攻めてくれば、東京都民は北か東北方面に逃げてくる。戦車隊は逆に南下していかなければならないが、幹線道路は人と荷車でごったがえしているはずだ。自分たちはどうやって南下すべきか?
 将校は答えた。戦車で人を踏みつぶして行けと。氏は憤慨した。国民を守るべき軍隊が、なぜ国民を踏みつぶして行かなければならないのか?そ ういうことを平気で口にする将校が、なぜ権力をふるっているのか?
 敗戦が決まって、氏は復員した。価値観が百八十度転換した。日本は貧困のどん底にあった。茫然自失の中でも、自由を手に入れた充足感がじわじわとあふれてきた。悲愴な気分はなかった。
 そのとき氏は思った。いったいこれまでの自分は何だったのか?戦争は何だったのか?誰がどういう意図を持って日本を戦争に突入させたのか? 日本人というのは何なのか?自分が生きている日本という国は、どういう存在なのか?今の日本、戦争中の日本、それ以前の日本という国は何なの か?
 そういうことを知るために、日本の歴史と文化、それに関わってくる外国の歴史と文化の研究を開始した。すべては自分自身の疑問に答えるためであった。調べていくうちに、日本人という民族の特質、それを体現した ような偉人たちの生き生きとした姿、同時代の人々の姿が目に浮かんできた。氏はそれを歴史小説として発表した。
 昭和35年(1960年)『梟の城』で直木賞受賞。『梟の城 (新潮文庫)』に所収
 昭和41年(1966年)『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。『竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫) 』、『国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉 (新潮文庫) 』に所収。
 平成5年(1993年) 文化勲章受章
 受賞歴はたくさんあるので、これはほんの一部に過ぎない。
 私の耳には、司馬遼太郎氏の作品から、こんなメッセージが聞こえてくる。日本にも外国に対して誇ることのできる歴史があるじゃないか。誇れる偉人たちがいるじゃないか。民族としての長所短所をしっかり見つめ直 そうじゃないか。一方で戦前の暗い時代もあったけど、いいところも悪いところも洗いざらい調べ上げて、歴史的な分析と評価を行い、後の世代に伝えようじゃないか。二度と悲劇を繰り返さないように、民族特有の弱点を克服するように日頃から取り組んでいこうじゃないか。

  実は私も40歳を過ぎてから似たようなことを自問自答している。今自分が交通事故か病気か犯罪に巻き込まれて死んでしまうとしたら、死の直前、自分の人生を後悔するだろうか、それなりに満足するだろうか?と。
答えは「ほぼ満足」。それなりにやりたいことをやってきたし、今も自分にできることをできるかぎりやっていると思っている。家族に対しても、世間に対しても...。後悔するとしたら、自分の子供のために書いている原稿を清書していないことやこれは書いておきたいという構想を作品にまとめていないことだろう。
 いずれにしても、勝手ながら司馬遼太郎氏は私の尊敬する師なのである。 最後に断っておかなければならないことがある。世の中に司馬遼太郎研究家や熱烈なファンが数多くおり、それぞれの解釈があるはずである。私はもの書きの立場から氏の考え方を学び取ろうとし、著作を解釈している者の一人である。ここで書いた話は、あくまでも私の主観に過ぎない部分が多々あるかもしれない。私論として読んでいただければ幸いである。

 司馬遼太郎が初めて書いた長編小説『梟の城』は、その年直木賞を受賞 した。この受賞にはちょっとしたエピソードがある。当時の審査員に吉川 英治、海音寺潮五郎という歴史小説作家の大御所がいた。吉川英治はこの 作品に低い評価しか与えていなかった。一方、海音寺潮五郎は高く評価し、 直木賞に推薦していた。
 海音寺が吉川を説得にかかる。
「吉川先生、この人はね、先生とむしろよく似た素質を持った天才だと思いますよ」(『司馬遼太郎からの手紙』、317頁、週刊朝日編集部編、朝日文庫より)。
 正直なところ、『梟の城』を読んだだけで司馬遼太郎が天才だということがどうして見抜けたのだろう、と不思議に思う。『竜馬がゆく』、『坂の上の雲なら理解できる。海音寺潮五郎という人もすごい人だと思う。
 海音寺の強烈な後押しにより、『梟の城』はめでたく直木賞を受賞。その後も司馬遼太郎に海音寺の激励は続く。海音寺潮五郎という作家がいなかったら、私は二作目は書かなかったかもしれない、と司馬自身が『街道をゆく』の中で記している。

 司馬遼太郎がさらに才能を発揮するために、もう一人の人物が登場する。水野成夫産経新聞社社長(当時)だ。直木賞を取った司馬に、産経新聞の連載小説を依頼したのである。それも吉川英治並みの破格の原稿料で。それは余りにも身に余ることといったんは辞退した司馬だが、水野成夫は必死に説得した。そのとき始まった連載が「竜馬がゆく」。原稿料は膨大な量の文献を購入するために消えた。
 この作品の連載が開始されたころ、読者や評論家の評判は芳しくなかったという。連載を単行本として発行したのは文藝春秋社だったが、二巻までは返本の山。全然売れなかったと、担当編集者だった和田宏が『司馬遼太郎という人 (文春新書) 』で書いている。
 ところが、三巻目あたりから売れ行きに火が付き、ベストセラーに躍り出る。それとともに作品自体の評価も上昇していく。
 小説の中に歴史的背景の解説が登場する司馬遼太郎独特の文体が完成するのも、ちょうどこの頃だ。こういう文体で読者が受け入れてくれるだろうか?司馬遼太郎自身、不安な気持ちもあったようだ。それも杞憂に終わったことは、歴史が示していることである。
 産経新聞での連載がなかったら、その後の司馬遼太郎は存在しただろうか。それくらい大きな意味があったのである。

 司馬遼太郎ほどの偉大な作家であっても、初めから誰にでも高く評価されたわけではない。いきなりベストセラーを出したわけでもない。といっても、司馬遼太郎自身が富と名声を求めたわけではないが...。
 常により高いレベルの作品を書こうとする姿勢を持ちながら、自分の作品を高く評価してくれる作家、編集者、読者、友人を一人でも多く持つこと。それが何よりも大切だということをこのエピソードが教えてくれている

 企業社会では「夢ばっかり見るな、現実を見ろ」と言われ、夢を追い続けることがあたかも悪いことのように非難される。常識や知識と呼ばれる ものが尊ばれ、それをいかに身につけているかで立身出世が決まる。
 文学の世界ではそれと正反対で、夢を持ち続けなければどんな人でも才能は開花しないし、開花してもすぐしぼんでしまう。夢は想像力の原動力であり、それが感受性や創作力へとつながっていくからだ。常識や知識は、文学・国語の先生、評論家、編集者といった職業には絶対的に必要な要素
だとしても、作家にとっては必ずしも重要な要素ではない。
 夢を持ち続けよう、ということをテーマに、司馬遼太郎編の最終回を締めくくりたい。
「私は文学論議というものにどういう関心もないが、ただ作家にとっては知識は敵であるということだけは、どうもそうらしいと思っている。年をとって知識がふえればふえるほど、物事に感動することが少なくなるが、それだけのぶんだけ創作力がなくなってゆく。」(司馬遼太郎著『街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか (朝日文庫) 』、219頁)。
 司馬遼太郎氏は、1923年(大正12年)8月、大阪市に生まれた。少年時代は感受性が豊かすぎたようで、相性の悪い教師に教えられた数学、英語は得意ではなかったという。
 旧制中学卒業後、1941年(昭和16年)大阪外国語学校(現大阪外国語大学)モンゴル語学科に入学。
 その頃のモンゴル語学科といえば、きわめて人気がなかった時代である。なぜ司馬氏がこの学科を選んだのか。
 私が氏の著書を読みあさったのは、その理由を知ることも目的の一つにあった。本人は他の学校に合格できなかったからと謙遜しているが、本当のところは、モンゴルの草原を駆け回る騎馬民族に憧れ、その足跡を追ってみたい。いつか自分もその草原に立ってみたい、という夢があったから
のようだ。実際、その夢は『モンゴル紀行』などの多くの著書で実現している。
 1943年12月、学徒出陣。戦車隊に編入され、初めて立った戦場は旧満州(現在の中国東北部)の旧ソ連との国境沿いだった。かつて騎馬民族が駆け回った草原に、自分は戦車を率いて立っている。しかもとても生きて帰れそうにない。その心境はいかばかりだったか。
 1945年(昭和20年)に終戦を迎え、復員。このとき22歳。前号でも書いたが、この戦争体験が司馬氏の作家としての原点となった。「22歳の自分自身への手紙」。氏の膨大な作品群は、それが結実したものなのである。
 1996年(平成8年)2月12日逝去。享年72歳。
 氏の業績を記念して、「司馬遼太郎記念館」が建てられている。氏の蔵書や愛用品が展示されているので、関心のある方はぜひ出かけられたい。行きたい行きたいと思いつつ、残念ながら私はまだ閲覧したことがない。
 ※所在地等を記しておきます。
〒577-0803大阪府東大阪市下小阪3丁目11番18号
電話番号06-6726-3860
http://www.shibazaidan.or.jp/