上ノ山 明彦

山本周五郎 略歴と主な作品

  簡単に、山本周五郎の略歴を紹介しておきたい。
<略歴>
1903年(明治36年)0歳
  山梨県北都留郡初狩村にて清水家の長男として誕生。三十六(さとむ)と名付けられた。
1910年(明治44年)7歳
  神奈川県横浜市久保町に転居。横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)に編入。

 この学校で、三十六は一人の恩師と出会う。小学校四年生のとき、作文が得意だった三十六に水野実先生が「小説家にでもなれ」と言った。この日から、周五郎は小説家になろうと決心した。

1916年(大正5年)13歳
 横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。
 卒業と同時に東京木挽町(現銀座)にあった山本周五郎商店(きねや質店)に住み込んで奉公することになる。

 三十六は家が貧しかったために中学校へ進学することができなかった。
 ここで二人目の恩人と出会うことになる。店主の山本周五郎(洒落斎と名乗っていた)である。自ら小説を書くような文芸愛好家だった。丁稚、番頭には夜学に通わせ、詩や小説、随筆を書かせたた。三十六が蔵の本を読むことを許した。
使用人たちは店主を愛し尊敬し、彼こそ「本当の父親だ」と語り合った。

1923年(大正12年) 20歳。
 9月1日関東大震災。山本周五郎商店も被災。解散となる。
1926年(大正15年・昭和元年)23歳。
 震災後、関西に転居した。神戸で『須磨寺附近』の着想をもった。それが『文芸春秋』4月号に掲載され、文壇デビュー作となった。「山本周五郎」というペンネームは、このとき初めて使った。
 ペンネームにまつわるエピソードが伝えられている。三十六が自分の住所として「山本周五郎商店」と書いたのを編集者がペンネームと勘違いしたために「山本周五郎」という名前になった、という説がある。
 一方、三十六が恩人である店主の山本周五郎に敬意を表してペンネームを付けたという説もある。

1931年(昭和6年)28歳。
 東京馬込東に転居。馬込文士村の住人となる。
1943年(昭和18年)40歳。
 第17回直木賞に『日本婦道記』が推薦されるも辞退。
 辞退の理由は定かではないが、周五郎はこう語っている。「私はつねづね各社の編集部や読者や批評家諸氏から、過分な 『賞』を頂いている」。編集者や読者から高く評価されることこそ、何にも勝る「賞」であるという意味だろう。周五郎はこの後も、すべての賞を辞退している。
1961年(昭和36年)58歳。
 文芸春秋読者賞に『青べか物語』が推薦されたが辞退。
1967年(昭和42年)
 2月14日、肺炎と心臓衰弱のため死去。享年63歳。

 歴史・時代小説から現代小説まで非常にたくさんの作品があり、映画化もされている。特に江戸時代の庶民の生活を描いた時代小説は、非常に多くの読者に愛され続けている。私のその一人である。
 ここであえていくつか主な作品をあげるとするとこうなる。
小説日本婦道記 (新潮文庫)
寝ぼけ署長 (新潮文庫)
栄花物語 (新潮文庫)
正雪記 (新潮文庫)
樅ノ木は残った (上) (新潮文庫) 」「樅ノ木は残った (下) (新潮文庫)
赤ひげ診療譚 (新潮文庫)
青べか物語 (新潮文庫)
季節のない街 (新潮文庫)
さぶ (新潮文庫)
ながい坂 (上巻) (新潮文庫) 」「ながい坂 (下巻) (新潮文庫)