有田の磁器の起源は、朝鮮出兵の際に鍋島直茂が連れ帰った李参平という陶工が、1616年に有田の地、泉山で磁器の鉱山を発見し、窯を開いたところから誕生したと言われている。
その後、優れた陶工たちの手によって有田焼の様式が確立していった。
中でも酒井田柿右衛門は、柔らかくて「温かみのある乳白色の素地の上に、余白を十分に残した明るく繊細で絵画的な構図を特徴とする色絵磁器」(柿右衛門窯のホームページより引用)の様式を完成させて、国内外から高く評価された。
当初、製品は国内で販売されていたが、生産量はまだ少ない状態だった。
1650年代に入ると、オランダの東インド会社が日本に進出してきた。中国の明王朝が滅び、景徳鎮の生産が衰退したため、新しい輸入先を確保する必要があったためである。
東インド会社は有田・伊万里の磁器を盛んに仕入れ、長崎の出島からヨーロッパに輸出するようになった。1670年代には柿右衛門様式の磁器が人気を博した。
輸出の最盛期は1650年から1700年ごろまでの50年間で、高い品質の磁器が大量にヨーロッパに輸出されている。その数量は、オランダ側の統計だけで約400万個にも上っている。これに商館員や商船の船員たちが持ち出したものを加算すると、さらに数量は増える。
この時代、柿右衛門様式と並んで、人気があったのは、「金襴手」とよばれる金と華やかな彩りを施した様式の磁器である。
一方、「鍋島焼」は、鍋島藩の藩命により幕府や大名、宮廷などへの献上・贈答品としてのみ生産されていた。その窯も職人も藩によって厳重に管理され、完成品も一般の人間は見ることも触れることもできなかった。
江戸幕府は輸出品の規制を行うようになり、1757年、東インド会社に対する輸出は停止となった。
これ以降、有田・伊万里焼はもっぱら国内向けになり、安い量産品が多く出回るようになる。
有田の窯と陶工の歴史は、残念なことに0820年代までの資料がほとんど残っていない。
それは1828年(文政11年8月9日)の大火事で資料が焼失してしまったからである。
その日の深夜、九州を襲った暴風雨が有田を襲った。岩谷川内の窯の火が燃えひろがり、「有田千軒」といわれた皿山を焼きつくした。この災害により、有田の磁器産業は壊滅的な打撃を受けた。
有田・伊万里焼が再び脚光を浴びるのは、明治維新政府が外貨獲得の手段として有田・伊万里焼に注目したときである。
1867(慶応3)年に開催されたパリ万博に有田・伊万里焼が出品され、再び海外から需要が高まった。同時に、国内の陶磁器産地の台頭もあり、ライバルが増える時代にもなった。
これ以降、有田・伊万里焼の歴史において重要な出来事として次のものがあげられる。
明治維新により藩の支援をなくした時代、磁器の再興を考えていた人たちが、力を一つに合わせる必要を感じ、選りすぐりの陶工や絵付師、陶商を一つにまとめ、1875(明治8)年、「香蘭社」を設立した。
1879(明治12)年、同社は「深川製磁」に分かれている。
1896(明治29)年、香蘭社は、工業用品「碍子」も製造するようになる。
大正、昭和と時代が流れていく中で、数度の戦争が勃発する。有田でも職人がいなくなり、原料もなくなる。
そういう状況下、地元の人々の手で、企業合同を行ったり技術の保存を図ったりしながら、磁器の伝統を継承していった。
戦後、再び有田・伊万里が活況を呈するのは、いわゆる「高度経済成長期」である。磁器がよく売れたが、中でも旅館、ホテル、料亭で大きな需要があった。
しかしながらその後、安い商品が大量に出回る時代になり、現在に至るまで長期低下傾向にある。根本的な解決策はまだ見えていない。
地元では後継者育成にも力を入れている。1985(昭和60)年、佐賀県立有田窯業大学校を開校した。「陶磁器産業の振興を図るため、陶磁器に関する専門知識及び技術の修得により、将来業界の後継者、技術者となって働く人材の育成を目的として開校」(同校ホームページより)というのが、設立趣旨である。 |