鍋島文書によれば、「文禄三年(1593年)、直茂公帰陣のおり国の宝になさるべく、高麗より数多くの焼物師を召し連られ、上手頭立者6,7名を金立山のふもとに召して焼物を作らせられる」とある。これが「御庭焼」の創始である。それより十数年を経て、慶長の末(1610年頃)初代藩主勝茂公がこの一団を伊万里郷の藤の川内に移し、窯を築かせて、周辺の窯業の発展の基盤とされた。
元和の始めに、泉山の白磁鉱が発見されるにおよび、寛永五年(1628年)有田、岩谷川内に第一期の藩窯が築かれ、さらにこの藩窯は二代目藩主の光茂公により、寛文初年(1661年)南川原に移され、陶業の保護・陶工の優遇措置などをはかり、陶磁器の生産が奨励された。
この時期に藩窯の基礎がかためられ、彩画錦文の磁器生産も順調となり、オランダ商館を通じての輸出も始められた。
焼物製造を肥前国の重要な産業として、藩の奨励育成が始められて半世紀にして、肥前磁器の主流となり、内外の注目を集めるにおよび、その製造秘技の保護が絶対となり、そのために、職制の確立や地理的条件の完備も必要とし、加うるに優秀な陶工集団の存在と最高の青磁鉱床が発見されたことから、第三期藩窯の移転地が大川内山に決定された。
かくて、延宝三年(1675年)規模も新しく本格的な藩窯が大川内山で始まったのである。
鍋島「御庭焼」は、伝統ある鍋島藩御用窯の唯一の直系の窯元であります。
以上、伊万里鍋島焼協同組合のホームページより引用
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