第2章 修行の喜び

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下記にテープ起こし原稿を掲載します。話の中で省略された言葉を多少補足してあります。

5.「究極の形」はいかにして生まれるか

Q.先生はこう言われています。「用と美を兼ね備えてはじめて、人間性あふれる作品が生まれる」。先ほど言われた「究極の形」はどういうときに思いつかれるのでしょうか。

井上萬二
美術館を見たり、人様の展覧会を見たり、それから焼き物の図書を見たりして、そういうところからアイデアを見出す道もあるんですね。それは半模倣的な面がある。良い他の作品を見て、これはいいなと思ったら、写しはしなくても感性で「よし、あの人に近いものを作ろう」。半イミテーションなんですね。モノマネなんですね。
でも、モノマネでない自分だけの形というのは、何千何万個と作る中に、自分だけにしか生み出されない形というものが出てくるんです。
それは何千何万と作る人でないと生み出せない、その人だけしか生み出せない形というのがあるんですよね。それはどういうものかといえば、一つの丸い壷を作り出そうという意識の下で、それを作っていく過程の中に、この形はいいな、そのまま残そうかという形が、二つか三つ必ず現れてくる。
でもそれは土が完全に、5キロの土で完全に30センチのモノができなくてはいけないという技術の下に作りだしていくときは、まだ土が生きていないんですね。最後は意図の下に作っていくけど、その途中で生まれた形を脳裏に控えて、すぐ挑戦してみる。あの形が良かったとイメージして作り上げていく。
そしたら、その形を作る工程の中に、また別の形が生まれる。肩がなで肩だったり、下が垂れたり削げたり、いろいろな形が生まれる。これはいいな、これは残そうという形が、必ず一つ二つ三つ出てくるんですよ。その中からまたすぐ挑戦して作っていく。
だからその人が一つの意図の下に作りだす過程の中に、三つも四つもいい形が生まれてくる。それは他の人がモノマネできない自分だけに生まれた形なんですね。
さっき言ったように、技術を完全にマスターすれば、形というものは、アイデアというものはいくらでも浮かんでくるんです。いくらアイデアを学ぼうと思っても、自分に技術がないと生まれてこない。
それは作る人だけしか生み出しえない究極の形です。その人の形です。

Q 先入観がありまして、自然のものを見て思いつかれるのかと思っていました。

井上萬二
それは日本のみならず海外でも見るようにしています。それで進んで海外に行くようにしているんです。海外のいい文化と日本の伝統的な文化を考察します。我々はトラディショナル、伝統というものが常に頭の中にある。
アメリカという国がなぜ好きかというと、アメリカは伝統のない国だから、伝統にとらわれない新しいものを創造するセンスを持っているんです。
だから、彼たちの「ニューの用」、「用のニュー」のスタイル。我々は「オールドの和」のスタイル。「洋と和」の融合、「ニューとオールド」の融合によって美というものは生み出されるものです。
あの地に行って、伝統のない、伝統から無視された美の意識というものを見て、それを自分が日本の伝統と融合させて作り出していく。そういう点ではやはり旅をして、海外の地方の文化を吸収して、その中から間接的に自分の美意識を見出すということも多々あるんです。
だから、見るものはみんなきれいなものを見るという意識を常に持っているんです。美しいものを見て、美意識を養う。
それと感動がないとダメですね。どんなものでも見て、それから自分の形に展開していく。そういう好奇心がないとダメです。
だから私は日本全国を回っても、必ず神社仏閣とかお城とか、そういうものを常時観察する。そしてその地方の文化から吸収していくようにしているんです。