第2章 厳しい修行から得たもの
★上のプレイボタン(右矢印)をクリックすると、再生されます。 下記にテープ起こし原稿を掲載します。話の中で省略された言葉を多少補足してあります。 |
3.深川製磁で学んだこと 深川製磁では、2代目社長が厳しい社長で、なかなか大変だったですけど、私はその人のおかげで今日があると思っています。偉大な社長でした。物でも何でも、土でもちょっと落ちていると、「これで盃がいくらできるね」と。それくらい厳しいお方でした。そういう目の肥えた人の前で仕事をするということは、私たちは命がけで仕事を覚えていかななければなりませんでした。 社長が「煎茶をつくってみらんか」と言って、作らされたことがあります。できるだけ薄くって言われたので、腰からフチまで1ミリあるかないか、0.5ミリくらいに薄く作って、たまたま30個ばかり作ったんですが、全部取れたわけです。あまりにも薄すぎて、外に描いた絵が、内に描いたように出てしまったわけです。営業所は、こういうもの売れない」よ社長に言うたらしいですが、「なんというばかげたこうと言うか。こういうものを作れる職人が、どこにおるか」と言って、さらにそのときに、「こういう職人は深川製磁始まって以来の細工人。こういう細工人はもう育たんぞ」と、社長がほめていらしたそうです。滅多にほめない人がほめたんです。 Q 今まで厳しさとか苦しさのお話をお聞きしたのですが、一方で楽しさとか喜びもあるのではないかと思います。その点について。 ろくろで一流になるためには、極端な言い方ですが、「ろくろバカ」にならなければ。「職人バカにならんと本物はできませんよ」と。いいかげんにして、ただ辛抱したから一人前になれると思うのは大間違い、と私は言うんです。言葉は悪いけど、「ろくろバカになれ」と。 Q 修行時代にうれしかったことは。 村島昭文 宮内庁からきた注文は、来るものは全部私がつくらなければならなかった。そのへんが大変でしたけど。苦しみはあっても、陛下の器を作ることができるというのは、たいへんな喜びでした。 宮内庁の仕事は途絶えとったんですが、私が深川製磁に入ってから、宮内庁から注文が来るようになって、最初は200個くらいの注文だったですが、一年一年個数が増えて、会社を退職する時分になった頃は2000も2500もつくらにゃならんようになりました。晩餐会にお呼びになるでしょ。帰りには、それがおみやげとしてあげられるもんですから、毎年作らなければなりませんでした。一年の間、暇を見て作っていかないと間に合わなくなります。 |