阿刀田高、藤沢周平に学ぶ
大病が人生の転機になった
読者の方の中にも、過去に大病やケガを経験された方が、多数おられるのではないだろうか?これから紹介する二人の作家は、肺結核という大病が人生の転機となった。もちろんそれは不幸な出来事であったに違いないが、二人とも後ろ向きになることなく、逆に気負いすぎることもなく生活を続け、神様に導かれるかのように自然に作家となった。
この二人の作家からは小説論からも学ぶべきことは多い。それは別の稿であらためて紹介することにして、ここは二人の生き様に学んでみたい。
阿刀田高は昭和十年(一九三五年)、当時としては裕福な家庭に生まれ十歳のときに終戦を体験している。その後、早稲田大学仏文科に入学しているから、当時としては恵まれたほうの人生であった。
転機は、大学二年生のときだ。この年肺結核を患い、二年間の療養生活を送ることになる。当時の肺結核は治療法の少ない大病であった。
病気は治ったが、今度は就職活動がたいへんだった。本当は新聞記者になりたかったが、健康診断ではねられた。他の会社でもやはり健康診断ではねられた。自分の病気が完治したことを証明するために、レントゲン・フィルムを持参して企業の担当医師と面談したが、それでも冷たい対応してもらえなかった。
最後に、公務員である国立国会図書館の職員採用試験を受けた。ここでもレントゲン・フィルムを持参して担当医と面談した。親切な医師が、ここならだいじょうぶと太鼓判を押してくれ、めでたく採用となった。
阿刀田高は初めはこのまま定年を迎え、年金で暮らしていこうと考えていたそうだ。勤務する傍ら雑文書きの小遣い稼ぎをしたのがきっかけで、その後作家として独立。二足のわらじでは体がもたない。図書館よりは書く方が自分に向いている、と決意して独立に踏み切ったという。
一九七九年「ナポレオン狂 」で直木賞を受賞している。
藤沢周平は、昭和二年(一九二七年)、現在の山形県鶴岡市の貧しい農家の次男として生まれた。当時の農家の子供たちは小学校を卒業したらどこかに就職するか、よその農家の養子になって百姓を継ぐのが普通だった。
周平は学校の成績が良かったことや周囲に理解者がいたことが幸いして働きながら中学校夜間部を卒業し、山形師範学校に入学している。
昭和二十四年(一九四九年)、師範学校を卒業し、湯田川中学校に赴任した。ここまでは当時としては順風満帆の人生だろう。
転機は二年後に起こる。昭和二十六年、集団検診で肺結核が発見されたのである。昭和二十八年に上京し、東京都北多摩郡東村山町(当時)の篠田病院に入院し、療養生活に入る。
昭和三十二年(一九五七年)、退院が決まり、故郷で再就職先を探すが見つからなかった。そのとき友人から東京のある業界新聞記者の仕事を紹介され、そこに入社した。やむを得ない選択だった。
業界新聞の経験がある人なら、状況がよくわかるのだが、真面目なところ、いい加減なところ、ちょっとやりかたに問題があるところなど、いろいろな会社がある。藤沢周平が最初に勤めた新聞社は、どうも問題がある会社だったようだ。その後、業界新聞をいくつか転々としている。
昭和三十五年(一九六〇年)、「日本食品加工新聞」に就職し、その後編集長となる。この頃から小説を書き始めた。有名懸賞に応募しながら書き続けた。
昭和四十六年(一九七一年)、「オール読物新人賞」を受賞。四十三歳のときである。そして昭和四十八年、「暗殺の年輪 」で直木賞受賞。四十六歳。翌年同社を退職し、作家として独立した。
もし肺結核、療養生活、業界新聞への再就職がなかったら、そのまま学校教師として過ごしていただろうと本人も述懐している。教職の傍ら小説を書き、同じように大作家となったかもしれないが、そのまま教師として人生を過ごしたかもしれない。
大病が一大転機となったことは間違いない。その嵐に吹き飛ばされることなく、地面をしっかり踏みしめ、自分の道をひたすら歩いて来た。その生き様に、私はただただ敬服するのみである。人生の大きな壁につぶされてはいけない。気負いすぎて独りよがりになってもいけない。自分の進むべき道をしっかり歩け。そう教えてくれるのである。