宮崎駿に学ぶ(一)

   他人を楽しませるのは楽ではない

 宮崎駿はすばらしい感性と才能を持った作家・映画監督である。彼のすごさを紹介しようとすると、一回では足りないので三回に分けることにした。まずはこの本を紹介しよう。『出発点―1979~1996 』(宮崎駿著、徳間書店刊)という本である。

一九七九年から一九九六年にかけて新聞・雑誌に紹介されたインタビュー記事、彼自身の原稿を集めたものだ。彼の経歴から作品に対する想い、アニメーションに対する考え方、着眼点、映画論などが詳しく書かれている。映画関係者やアニメーション関係者はもちろんのこと、作家志望者にとっても、非常に勉強になることは間違いない。
 「他の人々よりちょっとよけいに夢を見すぎた人たち、自分だけでなく他人にまでそれを伝えようと考えた人間たちがアニメーションの世界にやってくる。そして他人を楽しませるのは、とてつもなく楽ではないことにやがて気づく」(『出発点』より)
 引用の「アニメーション」という言葉を「出版」に置き換えてみると、ここの読者にそのまま当てはまる言葉だ。
 宮崎駿の考え方や作品づくりに対する想いについては後にして、まず略歴から見ていきたい。
 一九四一年、東京都生まれ。男四人兄弟の次男として生まれる。
 一九五六年、豊多摩高校入学。マンガ家をめざす。カラー長編動画「白蛇伝」を見てアニメーションに興味を持つ。
 一九五九年、学習院大学政治経済学部入学。児童文学研究会に入部。マンガを書いて、貸本の出版社へ持ち込むが採用されず。
 一九六三年、東映動画入社。
 さて、ここからアニメーションの世界に入っていくのだが、手伝いから原画、演出などを含めて参加した作品は多い。
 一九六四年「ガリバーの宇宙旅行」、「少年忍者風のフジ丸」。なつかしい!私はこのアニメが大好きだった。たしか七~八歳の頃、毎週ワクワクしながら見ていた記憶がある。最後には本物の忍者の末裔が登場し、忍術を実演してくれていた。
 六五年「ハッスルパンチ」、六六年「太陽の王子」。六八年「魔法使いサリー」。宮崎駿はこれにも参加していたのだ。六九年「ひみつのアッコちゃん」、これも有名。同年「空飛ぶゆうれい船」。七一年「ルパン三世」。七四年「アルプスの少女ハイジ」。海外でも評価されている名作だ。七六年「フランダースの犬」。七八年「未来少年コナン」。七九年「赤毛のアン」。どれもこれも有名なアニメばかりだ。宮崎駿はどの作品でも重要な役割を果たしている。
 八二年、マンガ「風の谷のナウシカ」連載開始。八四年、映画「ナウシカ」完成。八六年「天空の城ラピュタ」。八八年「となりのトトロ」。八九年「魔女の宅急便」。九一年「おもいでぽろぽろ」。九二年「紅の豚」。九四年「平成狸合戦」。九五年「耳をすませば」。九七年「もののけ姫」。
 宮崎駿の代表的な作品は一九八二年から現在にかけてつくられている。
 「アニメーションを作るとは、虚構の世界を作ることなのだと思う。その世界はゴリゴリの現実にくたびれた心や、くじけそうな意志や、近視性乱視になった感情をときほぐして、みる者をのびやかに軽快な心にしてくれたり、浄化されたすがすがしい気分にしてくれるものだ。」(前掲書)。
 ところが、いまのアニメーションは大量生産、番組の洪水の中にある。アニメータは生産過程のひとつの歯車でしかなくなっている。夢を求めるアニメータがいる一方で、金儲けの手段としてアニメを操る人々がいる。それに対してこう言う。
 「虚構の世界を築きたいと志して君がアニメータになっても、君の甘っちょろい夢など、ケシ飛んでしまう。あまりにも膨大な作業量、制作費と時間の絶対的不足・・(中略)・・君がコンベアの前に座って、機械的に紙に鉛筆を走らざるをえないとしても、だれが君を責められるだろう」(前掲書)。
 要するに低賃金、重労働、ベルトコンベアー式作業というのがアニメータの仕事なのだ。少ない人材、少ない制作費の中で、体をこわしながらも作り続けるしかない毎日の繰り返しだ。それでもそれを乗り越えていく志を持つ人だけが業績を残せるのである。その原動力となるのは何だろうか?