池波正太郎に学ぶ

   死があればこそ生がある

 朝日新聞の記事によると時代小説が、再び注目を集めているという。それが本当かどうかはまだはっきりしないが、時代小説でしか表現できないことがあることは間違いないわけで、それが再び世間に新鮮な感覚を与えはじめたのかもしれない。
 正直なところ、私はテレビの時代劇はあまり好きではない。石坂浩二版の「水戸黄門」は見たことがないが、それまでこの番組を見ると、私はときどき吹き出すことがあった。親不孝者の息子が悪さをすると、老いた母親が登場し、「それでもあの子は私がお腹を痛めて産んだ子。どうかお許しを」と泣き出すシーンだ。あまりにもパターン化され、何度も何度も同じシーンを見せつけられると、ひねた私には喜劇にしか見えなくなってしまう。「水戸黄門」ファンには不謹慎だと怒られそうだが、時代劇もマンネリ化するのはいけないと思うのである。
 今、新しい感覚の時代劇が求められ、それに呼応した時代小説が生まれてきているのかもしれない。
 話がそれたが、「鬼平犯科帳 」「仕掛人・藤枝梅安」「真田太平記 」「剣客商売」で有名な池波正太郎が今回のテーマである。小学生の頃、テレビで「必殺仕掛人」の梅安には、子供ながらハラハラドキドキし、勧善懲悪主義の時代劇とはひと味違う雰囲気を感じていたものだ。
 池波正太郎は一九二三年、東京・浅草で生まれた。父親は綿糸問屋の番頭で、その頃は裕福だったらしい。問屋の倒産を機に、父親の破綻が始まる。商売に失敗し、酒におぼれるようになった。七歳の時に両親が離婚。正太郎は母親とともに、浅草の実家に戻る。曽祖母、祖父母、叔父との七人暮らしが始まる。
 このころの池波正太郎は気難しい子供だったようで、めったに笑わなかった。それでも曽祖母は彼をとてもかわいがったという。
 彼は旧制小学校を十三歳で卒業し、株式仲買店(今の証券会社)に就職し、けっこう裕福な生活を送る。文学に目覚めたのは、徴兵されるまでの十年である。国内外の小説を片っ端から読みあさった。
 戦後の一九四六年、「雪晴れ」が読売新聞社の演劇文化賞に入選した。その選者の一人であった長谷川伸をたずね、弟子にしてもらうことを願い出、許される。このときの長谷川伸の言葉がいい。
「作家になるという、この仕事はねえ、苦労の激しさが肉体をそこなうし、おまけに精神がか細くなってしなうおそれが大きいんだが・・・かなりやり甲斐のある仕事だよ」(池波正太郎著『小説の散歩道』、朝日文芸文庫)。
 池波は小説が書けなくてひどいスランプに陥ったとき、長谷川伸は自分も同じだと言って、次の句を示した。
 観世音菩薩が一体ほしいと思う五月雨ばかりの昨日今日
 何日も何日も書けなくて、観世音菩薩にすがりつきたいほどだ、という意味である。
 やがて池波は戯曲から時代小説の世界に入り、ベストセラー作家になる。一九六〇年直木賞、七七年吉川英治文学賞、八八年菊池寛賞。そして九〇年五月、亡くなった。
 彼は『小説の散歩道』の中で、時代小説の魅力について語っている。
「この小説のジャンルは、まだまだ当分は発展をつづけることと思う。それは新しい書き手が新鮮な時代小説をうみ出しはじめてきているし、読むほうでもまた昔の世に生きた人間像に興味をいだくようになってきつつあるからだ。」
 昔も今も人間のあり方はそれほど変わっていないと、彼は言う。
『と同時に、一つだけたいへんに違っていることも出てくる。それは「死」に対する考え方である。
 昔の人々は「死」を考えぬときがなかった。(中略)。
 しかし現代は「死」をおそれ「生」を賛美する時代である。そして「死」があればこそ「生」があるのだということを忘れてしまっている時代なのである。』
 戦国の世の人は常に「死」と「生」を見つめている。そこにテーマが生まれてくるのだという。
 多くの時代小説は、実在した人物を作家が発見し、その人の生活や人生を作家が色づけしていく。断片的に存在する事実がベースであるが、その上に構築された話のほとんどは、作家が創造したフィクション(虚構)である。そこに時代小説の醍醐味がある。新しい時代小説に期待したい。