高橋三千綱に学ぶ

   東京スポーツの記者から作家へ


 高橋三千綱の作家への道をたどると、典型的な文学青年のような印象を受ける。

昭和二十三年、大阪府豊中市生まれ。父は高野三郎。学歴は、サンフランシスコ州立大学英語学科〔昭和四十四年〕中退。早稲田大学文学部英文科〔昭和四十七年〕中退。
 その後、セールスマン、通訳、土方など職を転々。昭和四十九年、東京スポーツ記者時代に「退屈しのぎ」で群像新人賞を受賞する。

 作家としての修行時代を見ると、まず同人誌からスタートしている。直木賞作家・藤井重夫の主宰する同人誌に短編を投稿しています。別の短編が採用されなかったことが不満で、約一年でそこをやめた。
 その後、仲間の勧めで「シスコで語ろう」という留学時代の話を自費出版したが、それが大誤算。二十三歳で百万円という借金を抱え、その返済のために昼夜働くという生活を送るはめになる。本人の言葉によると、勤務先のホテルの従業員食堂でうどんをゆでて食べるという毎日だったようだ。
 そんな暮らしの中でも、なんとなく作品を仕上げることは忘れなかった。借金を返し終わった年の暮れに、再び筆を取る。その時、ふと今まで書いたことのない文体が浮かんできて、書き出しを震える指で書いたという。
 そうやって作品を三ヶ月かかって書き上げ、ある懸賞に応募するが、採用されず意気消沈する。
 半年後、再びそれに手を加え、「群像新人賞」に応募した。それが受賞作「退屈しのぎ」という作品であった。
(受賞歴)

 群像新人文学賞(第十七回)〔昭和四十九年〕「退屈しのぎ
 芥川賞(第七十九回)〔昭和五十三年〕「九月の空
 (日外アソシエーツデータベース「Web WHO 経歴情報」参照)

この話を読まれた読者諸氏は、どう思われただろうか?

同人誌、自費出版、生活苦、賞への応募。職も転々という典型的な作家への道筋ですが、最終的には自分の作品、自分の文体を高い水準まで持っていく努力が不可欠であることを教えてくれている。そういう努力の結果として、道が開けてくるのである。