J.K.ローリングに学ぶ
ハリー・ポッターが突然現れた
ある日、ローリングはマンチェスターからロンドンに帰る列車の中にいた。そのときだ。
「ハリー・ポッターが突然現れたのです。あんなに興奮が突き抜ける感じははじめてでした」(『ハリポッター裏話』、静山社)。
この時、同時にロン、ハグリッドなど、主な登場人物たちも目の前に現れてくる。あのスポーツ、「クィディッチ」もこのとき浮かんできた。
ホグワーツ魔法魔術学校も、列車の中でイメージが固まった。『ハリポッター裏話』によると、ホグワーツを書くために、特にモデルとした学校や城はないという。
その夜、急いで頭に浮かんだストーリーをノートにメモしたが、すでにそのとき全部で七部作にしなければならないことがわかった。
しかしながら、この本の第一巻が完成するまでに長い歳月がかかっている。それはなぜか、そこがもの書きにとっては非常に重要である。とりあえず彼女の年譜を簡単に見てみよう。
一九六五年、イギリスのブライトンの近くで生誕。
小学生の頃から作家をめざす。
xxxx年 エクスター大学で英語学を専攻。
xxxx年 大学卒業後、ロンドンでバイリンガル秘書コースを受講。
(この間、専攻や仕事は文学と関係ない道を進んでいるが、それはやはり親の反対や自分の迷いのためであったようだ)。
この頃までは大人向けの小説を書いている。
一九八八年(推定) マンチェスターからロンドンへ帰る列車の中で、突然『ハリーポッター』の構想が浮かび上がる。
xxxx年 マンチェスター商工会議所に就職。執筆を続ける。
一九九二年 ポルトガルで結婚。長女誕生。執筆を続ける。
一九九三年、離婚後、エジンバラに居住。生活保護を受けながら『ハリーポッター』を書き上げる。
一九九三~九六年 エージェントと出版社に原稿を送るが返送される。
ついにエージェントのクリストファー・リトルが契約。
出版社のブルームズベリーが出版契約。
一九九七年七月、『ハリー・ポッターと賢者の石 』が刊行され、ベストセラーとなる。
二〇〇一年、ワーナー・ブラザーズより映画化。
年代が不明な箇所は、いろいろ調べても不明だったところ。
本書を解読しても残念ながら『ハリーポッター』の構想が浮かんだ年がわからない。大学卒業して一年後というから、二十三~二十四歳頃だろうか?とすれば一九八八~八九年頃だろうか。
何が言いたいかというと、ローリングが『ハリーポッター』の構想から第一巻を書き上げるまでに、四~五年かかっているということだ。実際、『ハリポッター裏話』によると、全七部作の各巻のストーリーと全体構成を固めるのに五年かかったと語っている。
すべての登場人物については、生まれから育ちまで完全な履歴(裏設定)が出来上がっており、それを本の中に書き込むと百科事典くらいのページ数になってしまう。読者はすべての裏設定について知る必要はないので、本文には書かれていない。
もの書きが学ぶべきことは、ローリングがそれくらい細部まで裏設定を仕上げていることである。何度も何度も構想を練り上げ、推敲を重ねることの大切さを教えてくれているのである。
一九九三年、ローリングは離婚し、妹が住んでいるエジンバラに引っ越す。そこで問題となるのはやはり生活である。子供はまだ乳幼児である。働くといっても無理がある。
彼女は生活のために教員になることを決意するが、教員免許を取るには最低一年かかる。
「第一巻を今すぐ完成させないと一生完成できないかもしれないと自覚していました。それで精一杯、超人的な努力をしたのです」(『ハリポッター裏話』)。つまり、教職を得るまでの一年間でこの本を完成させようと。このときから生活保護を受けながらの苦しい執筆が始まった。
有名なカフェで執筆を続けた話は、このときである。赤ん坊をクタクタに疲れるまで遊ばせ、眠り込んだ隙にカフェに駆け込んで原稿を書く。コーヒー一杯で何時間も書き続ける。幸い義弟が始めた「ニコルソンズカフェ」があり、そこが第一巻の主な執筆場所となった。
我々はローリングが成功するまでの努力を忘れてはならない。彼女の作品を読むと、間違いなく才能あふれる作家ではあるが、それが認められるまでは彼女自身が語っているように「超人的」な努力が必要だったのである。これは別原稿で書いたスティーブン・キングと同じだ。
話はそれるが、インターネット講座で指導を行っていて、非常にまれであるが、自分の才能に自信満々の人がいる。自信を持つことは問題ない。問題なのは、一晩とか二、三日という短期間で書き上げた原稿を、あたかも完成原稿のように出してくることだ。
これくらいの期間でアマチュアが書いたものは、あくまでも下書き(草稿と呼ぶレベルでもない)でしかない。当然、アラだらけである。これは今まで一人の例外もなくそうである。
中にはよく教材を勉強している成果が出ており、表現や描写が非常によく書けているケースがあるが、それでもストーリーや登場人物の練り方は不十分である。
才能ある人たちが超人的な努力をしているのであるから、仮に同等の天才的な才能があったとしても、それなりの努力をしなければ本物になれない。もし日本の出版社が、たいした努力もしない書き手をにプロにしているのならば、そういう出版社はすぐつぶれるだろう。読者もそういう素人だましにごまかされるほど無知ではないからだ。
私は現状の実力はあまり問題としていない。どんな作家だって、最初は素人なのである。大切なのは、常に上を見て才能を磨くことである。潜在的才能があっても、怠慢な人はアマチュアで終わりだ。そんなに世の中は甘くない。ローリングやスティーブン・キングを見習うべきだ。
第一巻がベストセラーになったローリングだが、しばらくの間、生活の基盤を執筆だけに置くことには戸惑いがあったようだ。売れたとしても、一時的なことなのかもしれない。幼い子供を抱えて、執筆に専念したとしたら、教職に就くことはむずかしくなる。そういう迷いがあった。
大成功を収めた今は、「お金のために書かなくともよいし、誰かに強制されて書くわけでもない」(前掲書)と、素直に自分の幸運を喜んでいる。しかし、「お金を一部お返ししてでも、静かに書く時間を取り戻したいと思うことがありますね」(前掲書)と、売れっ子作家になったことからくる様々な苦悩も素直に語っている。
『ハリーポッター』の日本語翻訳権をめぐる話もおもしろい。翻訳者の松岡祐子は、静山社の社長である。
だが元々社長であったわけではない。松岡は通訳だったのだが、社長であった夫が亡くなったために社長になった。といっても社員一人の零細出版社だった。
試行錯誤しているとき、イギリスにいる古い友人を訪ねた。彼が『ハリーポッター』を紹介してくれた。松岡もこの本に夢中になった、この本を日本の読者に紹介することが自分の使命だと思った。
でもそのときすでにこの本はベストセラーだ。日本の大手出版社が版権を取っているに違いないと思ったが、エージェントに連絡を取った。まだどこも日本語化の権利を取っていなかった。
松岡は二ヶ月間必死に訴え続けた。私がこの感動を日本の読者に伝えたいと。そしてついにエージェントからeメールが届いた。「あなたに決めた」と。
他の資料を読むと、日本の大手出版社も翻訳権について交渉していたようであるが、どうやら「いくら英米でベストセラーになったとはいえ、日本では売れないかもしれない」ということで、積極的ではなかったようだ。今となっては担当者は地団駄を踏んで悔しがっていることだろう。
学ぶべきことは、本の世界は必ずしもお金儲けだけの世界ではないということだ。「この作家のためだったら、どんなことでもしてあげたい」とか、「そこまで惚れ込んでくれるのだったら、ぜひお願いしたい」という関係が成り立つ世界である。『ハリーポッター』に限らず、いろいろな例がある。
私はローリングの姿勢も好きだし、松岡の姿勢もよい。久しぶりに感動的な話を読ませてもらって嬉しく思っている。だから私は出版業界が好きなのである。
もの書き志望の皆さんに忘れないでほしいのは、本当に出版の世界が著者と出版社との「持ちつ持たれつ」の関係で成り立っているということである。くどいようだが、そのことを忘れないでいただきたい。