司馬遼太郎に学ぶ(一)
司馬遼太郎が答えをくれた
司馬遼太郎が歴史小説を書くきっかけとなったのは何か?いつもどういうことを考えながら書いていたのか?私はそれを知りたくて、エッセイ、紀行文、対談集を片っ端から読んだ。小説はいったん後回しにした。その数は八十冊ほどになる。それでもまだ十数冊残っている。
それくらい読んでみて、ようやく司馬遼太郎がどういう気持ちで小説を書き始めたのかわかってきた。同時にここでは書ききれないくらい多くのことを学んだ。私もまたその時代の社会の風潮やマスコミの宣伝に影響を受けながら、バカな考えを持ったり行動をしたりした人間であった。
ただちょっとばかり何にでも疑問を持つという性格に救いがあり、そのおかげで道を誤らずに済んだ。
二十代のときに司馬遼太郎の作品に出合い感動しながらも、深く学ぼうとしなかった。そのときもっと深く追求していたら、などととりとめのないことを考えてしまう。果たしてその頃勉強したとして、どれだけ理解できただろうか?ある程度歳を取ったから司馬遼太郎を理解できるのかもしれないわけで、どちらとも言えないのである。
これまで抱えてきた疑問に対して、自分なりの答えを持っていたのだが、司馬遼太郎はそれよりももっと広く深く鮮やかに回答を示してくれた。それは単に知識が広く深いだけでなく、日本人を含む世界中の人間への愛情と警告で裏打ちされている。
しかもその言葉が決して難解ではなく、日常的な言葉とユーモアでわかりやすく語りかけてくれる。
そういったことについてこの稿で紹介したいと思う。
司馬遼太郎の小説作品に目を向けると、歴史小説、時代小説、伝奇小説がある。司馬遼太郎どんなふうに資料を読み、どんなふうに一つの作品に仕上げていったのか、何を描きたかったのか。そんなこともこのシリーズで触れてみたいと思っている。
ここではプロローグとして、私の司馬遼太郎に対する尊敬の念を述べたに過ぎないが、これ抜きに話を書けないと思ったので駄文ながら長々と書き連ねたしだいである。ご容赦あれ。