司馬遼太郎に学ぶ(五)

   司馬遼太郎を見いだした人々

 司馬遼太郎が産経新聞にいたころ、寺内大吉(作家であり浄土宗宗務総長)と親交を深め、「近代説話」という同人誌を始めることになった。同人には黒岩重吾もいた。

 このころ『ペルシャの幻術師』という短編小説を書いて、講談社倶楽部賞(今の小説現代新人賞)を受賞している。

 このころの心情について、「文藝春秋」平成八年五月臨時増刊号にある文章がよく表している。

 「わざわざ小説を書くのは、自分が最初の読者になるためのものだ、小説を書く目的はそれだけに尽きる、と思うようになりました。このことは、今でも変わりません。自分が読みたい物を書く、つまり自分に似た精神体質の人が、一億人の日本語人口の中に二、三千人はいるだろう。自分およびその人たちを読者にしていけばいい、それ以外の読者を考えない、と思い、そこからハミ出すまいとおもっています」。

 司馬遼太郎が初めて書いた長編小説『梟の城』は、もともと友人に頼まれて「中外日報」という仏教系の新聞に連載したのが始まりである。後に単行本になり、この年直木賞を受賞した。

この受賞にはちょっとしたエピソードがある。当時の審査員に吉川 英治、海音寺潮五郎という歴史小説作家の大御所がいた。吉川英治はこの 作品に低い評価しか与えていなかった。一方、海音寺潮五郎は高く評価し、 直木賞に推薦していた。
 海音寺が吉川を説得にかかる。

 「吉川先生、この人はね、先生とむしろよく似た素質を持った天才だと思いますよ」(『司馬遼太郎からの手紙 』、三一七頁、週刊朝日編集部編、朝日文庫より)。
 正直なところ、『梟の城』を読んだだけで司馬遼太郎が天才だということがどうして見抜けたのだろう、と不思議に思う。『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』なら理解できる。海音寺潮五郎という人もすごい人だと思う。

 海音寺の強烈な後押しにより、『梟の城』はめでたく直木賞を受賞。その後も司馬遼太郎に海音寺の激励は続く。海音寺潮五郎という作家がいなかったら、私は二作目は書かなかったかもしれない、と司馬自身が『街道をゆく』の中で記している。

 司馬遼太郎がさらに才能を発揮するために、もう一人の人物が登場する。水野成夫産経新聞社社長(当時)だ。直木賞を取った司馬に、産経新聞の連載小説を依頼したのである。それも吉川英治並みの破格の原稿料で。記者の給料が三万円程度の時代に、月百万円の原稿料を出すというのだ。

余りにも身に余ることといったんは辞退した司馬だが、水野成夫は必死に説得した。そのとき始まった連載が「竜馬がゆく」。原稿料は膨大な量の文献を購入するために消えた。

 この作品の連載が開始されたころ、読者や評論家の評判は芳しくなかったという。連載を単行本として発行したのは文藝春秋社だったが、二巻までは返本の山。全然売れなかったと、担当編集者だった和田宏が『司馬遼太郎という人』(文春文庫)で書いている。

 ところが、三巻目あたりから売れ行きに火が付き、ベストセラーに躍り出る。それとともに作品自体の評価も上昇していく。

 小説の中に歴史的背景の解説が登場する司馬遼太郎独特の文体が完成するのも、ちょうどこの頃だ。こういう文体で読者が受け入れてくれるだろうか?司馬遼太郎自身、不安な気持ちもあったようだ。それも杞憂に終わったことは、歴史が示していることである。

 産経新聞での連載がなかったら、その後の司馬遼太郎は存在しただろうか?それくらい大きな意味があったのである。

 司馬遼太郎ほどの偉大な作家であっても、初めから誰にでも高く評価されたわけではない。いきなりベストセラーを出したわけでもない。といっても、司馬遼太郎自身が富と名声を求めたわけではないが。

 常により高いレベルの作品を書こうとする姿勢を持ちながら、自分の作品を高く評価してくれる作家、編集者、読者、友人を一人でも多く持つこと。それが何よりも大切だということをこのエピソードが教えている。