山崎朋子に学ぶ

   修正要求を拒み、道を切り開いた

 今回の原稿を書こうとして、冒頭から「うーん」と唸ってしまった。というのは、この著者は取り上げ方がむずかしいからだ。山崎朋子はノンフィクション作家であり、女性史研究家でもある。代表作は『サンダカン八番娼館 (底辺女性史序章)』。この作品は映画化(タイトルは『サンダカン八番娼館・望郷』)されたので、ご存じの方も多いだろう。

 二〇〇一年に『サンダカンまで』(朝日新聞社)という彼女の自伝が発行されたので私もさっそく購入したのだが、長い間本棚に眠らせておいた。 この自伝はいろいろな読み方ができる。

 当然のことだが、一人の女性作家がいかにしてプロのノンフィクション作家となったのか?もう一つは、戦時に小女時代を過ごし、戦後、女性として妻として母として生き抜いてきた一人の女性の苦難の歴史として読むこともできる。山崎朋子は一九三二年生まれ。

 詳細は前掲書を読んでいただくとして、ここでは彼女が作家になったきっかけと苦労話について紹介したい。
 一九七三年、『サンダカン八番娼館(底辺女性史序章)』が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのが、山崎朋子にとって作家として成功する最大の出来事であったが、そこに至るきっかけとなったのは、児童文化史家の夫・上笙一郎(かみしょういちろうと読む)のアドバイスで開始した「アジア女性交流史研究会」だ。

 その発表の場として一九六七年、「アジア女性交流史研究」という小雑誌を創刊した。雑誌を続けて行く中、山崎朋子自身は取材の対象として、「からゆきさん」を多く送り出した天草・島原半島に目を向けた。現地を訪れたとき、町外れの小さな食堂で出会ったのが、『サンダカン』に出てくる「おサキさん」だったのである。山崎朋子は彼女の家に泊まり込み、その半生を書き記した。一九七〇年のことである。

「おサキさん」と彼女の朋友たちの生涯について関心がある方は、『サンダカン八番娼館』を読んでいただきたい。ここでは省略する。

 山崎朋子は苦労の末書き上げた原稿を一冊の本として出版したいと考えたが、その道も楽ではなかった。最初に出版を承諾してくれたのは中央公論社(現在は読売新聞の傘下)だった。

 しかし、当時の出版部長は山崎の原稿に大幅な加筆と修正を加えて出版しようとした。要約すると、出版部長は「ベストセラーになる本」にするために、娼婦の生活とベッドシーンを強調しエロティシズムを刺激するような内容に変えようとしたのである。

 女性底辺史としての一つの証として書いた原稿であるだけに、山崎朋子は悩んだ。大手から出版できるチャンスは生かしたいが、信念は曲げたくない。その板挟みだった。周囲の人に相談したが結論は出なかった。

 結局彼女はその出版部長に会い、「原稿を返してほしい」と申し出た。出版部長の反応は当然ながら冷たいものであった。

 こういう話は他人事ではない。もの書きをめざす人ならば必ず一度や二度は経験することである。中には本当にひどい原稿を持ってきて気取っている書き手もいるので一概には言えないが、やたらと威張っている編集者がいるのも事実だ。

 私もそういう編集者に苦い思いをさせられたことが何度もあるので、できる限り書き手には好意的に接するようにしているのだが、書き手の中にも、やはり実力も努力も伴っていないのにうぬぼれだけは一人前の人がいるのも事実だ。そういう場合は、その人の肩を持つことはできない。

 さて、いったんは挫折を味わった山崎だったが、突然幸運が舞い込む。筑摩書房の臼井氏と会う機会があった。そして『サンダカン』の原稿を読んでもらい、出版が決まったのである。しかも一字一句の修正なしで。

 最後に私が何を言いたいのか、おわかりだろうか。

 時々、私が取り上げる作家に「社会派」が多いところから、私が「社会派作家」だけを推薦しているように受け取る人がいる。それは誤解である。本連載はあくまでも、いろいろな作家の「プロに至った道」を研究して紹介するのが目的なのであるから。

 話がそれた。我々が山崎朋子から学ぶべきところは、自分の気持ちに忠実に生きるべきだということである。それなしにいい作品は書けない。自分の心を偽ったものを発表すれば、世間はそれを書き手の真意と受け取る。そのことを忘れてはならない。