立松和平に学ぶ
エリートの道を捨て流転生活
他人と違った才能、生き方、考え方、性格などを持った人を独創性がある人だと私たちは言う。独創性がある人はなんとなく輝いているようなイメージがある。
そういう人が現実に自分の周りにいたとすると、たいていの人たちが、独創的な人を軽蔑した目でみるか、うさんくさそうに見るだろう。本人も決して楽しい生活を送っているわけではなく、つらく苦しいのであるが、それは周囲にわかってもらえないだろう。
立松和平は独創的な人であるが、作家として食えるようになるまで「つらかった」と語っている。
一九四七年十二月、宇都宮市生まれ。早稲田大学政経学部卒業。在学中に早稲田文学新人賞受賞。この経歴を見ると、エリート街道まっしぐらだったはずだ。大学四年の頃は、大手出版社に就職が決まっていた。
ところが、入社を辞退して留年してしまう。その理由は小説を書き続けていたいという素朴な理由であった。それから放浪が始まり、土木作業員、運転手、魚市場の荷役といった肉体労働で生活費を稼ぎながら小説を書く、という生活を続けることになる。
周囲の友人たちの多くは当然、一流と言われている企業に就職している。皮肉ともやっかみともつかない声が、彼の耳にも聞こえてきた。
そうやって苦労して書いた小説を出版社に持って行っても、まったく採用してもらえない。それでも和平は書き続けた。書くことだけが自分の存在を証明する手段だったからだ。
貧乏だったにもかかわらず、和平はこの頃結婚した。
やがて小説家になることをあきらめたのか、故郷に戻り、宇都宮市役所に就職した。
しかし、立松和平はどうしても小説が書きたくなって、その市役所を辞めてしまう。
一九八〇年に「遠雷 」で野間文芸新人賞受賞。そこから彼の本格的な作家活動が始まった。後は知っての通りだ。
立松和平は言う。独創性は決して楽なことではない。つらいのだと。
作家として認められた後で、文壇というものについてこう語る。
「遠くから光り輝いて見えたものも、実際にその場所に立って見ると、荒野である」。本書の読者の中からも作家になる人が出ることだろう。そのときまでこの言葉を覚えておいていただきたい。
さらに、彼のこの言葉がよい。
「私の夢といわれれば、やっぱり名作を書くことだ。私自身ばかりでなく、多くの人が納得するような」。
作家を目指すきっかけはいろいろある。人によってはお金や名誉だったりもする。
でもほとんどの作家が最後に目指すものはこれなのである。