阿刀田高に学ぶ 1

   小説の存在価値とは?

 阿刀田高著、『日曜日の読書』(新潮文庫)には、作家志望者にとって非常に勉強になることが書いてある。本稿はこの本をベースにして話を進める。

 初めに小説そのものが人間にとってなぜ必要であるか?堅い表現では小説の存在意義について考えてみたい。

 阿刀田は言う。小説には、大きく分けて二つの流れがある。一つは「人間とは何か?人生とは何か?」という問いかけで書いていく作品。二つ目は、「楽しく、おもしろい」ということを追求する作品である。

 ロシア文学が日本で脚光を浴びていたころは、この「人間とは何か?人生とは何か?」が作家の主なテーマだった。左翼思想が流行していたころになると、「社会悪とは何か?政治とは何か?階級とは何か?」といったテーマが、小説のテーマとして多く取り上げられた。昨今のように「個人主義」の時代になると、恋愛、趣味、娯楽、個人的な生活に関係するテーマが、多くなっている。

 こうしたテーマを持つ小説のどれが優れている、どれが劣っている、ということにはならない。読者の中には人間や社会を問う小説のほうが「本当の文学である」と考えている人が多いかもしれない。

 これについて、阿刀田高は、はっきりとこう言い切る。

 「日本人には生真面目な人が多くて、文学作品も人生とは何ぞや、人間とは何ぞや、といったことを問うのが主流であると考えがちですが、そればかりではありますまい。小説には二つの存在理由があると私は考えます。

 一つは、今、申したように小説を通して、人間が生きていくことへの本質的な問い掛けを極めていく方向であり、もう一つは、小説は何はともあれ、よい暇つぶしになる、読んで面白いという存在理由です。後者の立場に立って知的なゲームを楽しんでいこうというのが推理小説の基盤です。」(出典:阿刀田高著、『日曜日の読書』、新潮文庫、一五六頁)

 近年では推理小説のような「知的なゲーム」の中にも、人生や社会の意味を考えさせてくれる作品がたくさんある。松本清張や宮部みゆきの作品には、そういうものが多い。歴史小説は、人間、人生、権力、政治、社会の意味を問う文学である。司馬遼太郎の作品がその典型だ。

 人間や人生の意味を問う小説の場合、日本では「純文学」と呼ばれる。それ以外の娯楽敵な要素が強い文学は「大衆文学」と呼ばれている。歴史小説も「大衆文学」に入れられている。

 この区別はほとんど意味がない。文学作品にはストーリーの展開や感性、表現力などにおいて完成度の善し悪しがあるだけだ。作家の多くはこの区分が意味ないことを重々承知しているようだが、マスコミや読者のほうが気にしているようである。

 日本で権威ある賞である「芥川賞」は「純文学」作品に、「直木賞」は「大衆文学」に与えられる。このことがこのジャンル分けに大きな影響を与えていることは否めない。この区分が定着しているため、これを変えることは至難の業である。

 「日本の文学界には、純文学と大衆文学の二つの区別があります。欧米にはこうした区分はあまり顕著ではありません。

 純文学は、真理とは、人間とは、世界とはを追及し、芸術性を志向するジャンルであり、一方大衆小説は娯楽としての面白さを追及するものでしょう。本来的にはこんな区分は必要ないのですが日本の文学界にはなぜか実在しています。」(出典、前掲書一七三頁)

 この問題はやはり日本文学特有の「私小説」の流れに由来しているのではないだろうか?わたしが十代の頃は、何か苦悩に満ちていないと文学ではないというような雰囲気を感じたことがあった。

 阿刀田は、日本人には昔から生真面目な民族であり、遊び心が足りない民族であると指摘する。その生真面目さから「本当にあった話が好きな民族」になったのかもしれないと言う。

 「本当にあった話」となると、ノンフィクションを別にすれば、小説の世界では「私小説」ということになる。

 「遊び心」は、たしかに典型的な日本人には不足していると思う。昔から日本人の心の底に、何か悲愴感漂う話に共感するものがあったのかもしれない。

 書き手としては、常に違う視点から物事を見ていく必要がある。海外の文学にもどんどん目を向けていくと勉強になるだろう。