加賀乙彦に学ぶ

   幸福を定義してはいけない 

 加賀乙彦あのエッセイ『不幸な国の幸福論』、『悪魔のささやき』がベストセラーになっている。私も読んだが、非常にいい本である。

 私が昔から尊敬している作家の一人が加賀乙彦である。『宣告』に代表されるように人間の罪、生と死、深層心理をモチーフした作品は高く評価されている。若い頃の私は、そのテーマがあまりに重々しく見え、正面から向き合うことを避けてきたが、ようやく年を取ってから普通に接することができるようになった。

 加賀乙彦はそういう小説家なのだが、今回紹介する本はエッセイである。エッセイでも書くテーマは同じく人間の罪、生と死、深層心理だ。

 ところが、エッセイになるとだいぶ楽に読める。わかりやすい言葉遣い、自分の深い体験、そこから導き出される理論、それを裏付ける豊富なデータを駆使して書いてくれているので、説得力がある。

 『不幸な国の幸福論』は、日本の現実から入る。社会保障は先進国で最低水準となり、格差は拡大した。自殺者は年間約三万人、うつ病患者は約一〇〇万人にも上り、日本は心底不幸な国になってしまった。

 同時に、一九九〇年から二十年間の日本経済の落ち込みもすさまじい。日本の債務はGDP(国内総生産)の一九〇%(二〇〇九年度)となってしまった。つまりそれが二〇〇%を超えれば生産より借金の方が多い国になってしまうのだ。そうなるまであと二年くらいだろう。それくらい日本人の経済と生活は悪化してしまったのだ。それに対して政府が取ってきた政策は増税と社会保障、医療・福祉の切り捨てだった。

 加賀乙彦はこうした劣悪な環境の中でも、幸福な生き方はあるよというメッセージを送っている。それが単なる人生論、哲学論だったら説得力はないだろう。加賀のすごいところは、自分が出会った人の本当の話としてそれを語ることができるところだ。

 「幸福を定義しようとしてはいけない。幸福について誰かがした定義をそのまま鵜呑みにしてもいけないということ」(前掲書、一一六頁)。これに関連して、小児麻痺だったNさん(女性)が立ち直っていく話は心を打たれる。

 加賀乙彦も書いているが、いわゆる「会社人間」から脱皮しないと、本当の自分を見つけることはできない。誰と会うので会社の肩書きでしか自分を紹介できない、会社にしか自分の存在意義を見いだせないという人は多い。そういうタイプの人は、定年やリストラで会社を去った後でさえ、自分を過去の会社に所属した人間としてしかできない。つまり、「元○○社○○部にいた○○です」と言い続けるのである。周りの人はそんなことで当人を評価しないから、行き着く先はうつ病ということになってしまうのだ。

 私もこの実例を知っている。世界的な企業「HAL社」(仮名。もし実在の社名があったとしても無関係)で管理職として働き、その後、子会社に異動して定年を迎えた人がいた。彼の態度は傲慢で、廊下ですれ違っても平社員や派遣社員・委託社員には挨拶さえ返さなかった。当然、社内の評判はすこぶる悪かった。

 その人は定年でその会社を退職した。そのまま長い間なりを潜めていたが、ある日、ある突然SNSに登場した。彼の自己紹介欄には、所属として「HAL株式会社OB」と記されていた。スナップ写真も掲載されていたが、かなりの老人になっていた。この例は、加賀乙彦の指摘する実態とぴったり合っていたので紹介した次第だ。こういう人生ではあまりに寂しく、精神衛生上よくないだろう。

 加賀乙彦は一九二九年東京生まれ。一九四三年四月、名古屋陸軍幼年学校に入学するが在学中に敗戦を迎える。東大医学部卒業後、東大精神科を経て東京拘置所医務部技官に着任。その後フランス留学。一九六五年、東京医科歯科大学犯罪心理学研究室助教授。一九六九年から一九七九年まで上智大学文学部教授、という経歴を持つ。

 戦前、戦中、戦後の体験談も、『不幸な国の幸福論』で語られている。国家総動員で戦争に突入していった体質は、今もほとんど変わっていないではないか、というのが著者の実感である。どうすればその枷から自分を解き放ち、幸福になることができるのか。精神科医として働いていた頃の患者や囚人との交流の話は、心底考えさせられるものがある。

 『悪魔のささやき』のほうは、ごく普通に生活し、ごく普通の人格を持った人間が、ふとしたことがきっかけで殺人者に変わってしまう恐怖を説いている。ある要因が重なり、悪魔がちょっと背中を押すだけで、普通の人がいとも簡単に残酷な殺人を犯してしまうのである。これは東京拘置所での著者が経験した囚人との交流や精神科医時代の体験を元に語られている。自分もまかり間違えばいつでも犯罪者に変わってしまうのだということがわかり、背筋が寒くなってしまう。

 救いもある。『宣告』のモデルになった死刑囚が心から自分の罪を悔い、純粋な気持ちになって死んでいったという事実だ。被害者保護、加害者保護の論議が盛んに行われているが、加賀乙彦の著書はまず読んでおくべきだと思う。

 最後に、加賀乙彦は二〇一〇年四月で八十一歳になるという。ああ、私も歳を取ったから、たしかにそうなるよなあと実感。加賀乙彦にはずっと長生きしていただいて、またエッセイで人間の根本問題について説いてほしい。

●参考文献

不幸な国の幸福論 (集英社新書 522C)

悪魔のささやき (集英社新書)

宣告 (上巻) (新潮文庫) 』、『宣告 (下巻) (新潮文庫)

 以上、すべて加賀乙彦著。