佐藤さとるに学ぶ 2
「書かなけれは本当に考えていることにはならない」
文章が書き手の人間性を表すように、小説も作家の心の底に流れる世界観や人生観を表す。そういうものを作家が露骨に文章で表現した小説は読み手に不快感を与える場合が多い。逆に、そういうものを抑えて書いた小説であっても、深いところで表される価値観があり、それが自然と読み手に伝わってくるものである。
佐藤さとるは作家が日頃から他人からいろいろ優れた考え方や価値観を吸収することが大切であると説く。そういったものと実際の経験と空想が混ぜ合わさったとき、物語が意外な展開を生み、書き手が予想もしなかった作品に仕上がることがある。そのことをある作家は「神様と一緒に仕事をしているような気がする」と表現している。
次の引用にそのことが記されている。
「個性的で柔軟な世界観、人生観を持つように心がけるのは、なにもファンタジーを創るためだけに必要なのではないが、物語の場合はいやでも底に流れるのでとくに重要である。もちろんこれらも、潜在意識の中に濾過されて持ちこまれる。
こうして、天然コンピューターの情報量は、とてつもなく大きくなって、本物のコンピューターが奇跡のような働きを見せる以上に、一種奇妙な働きをしてくれるようになる。実際の経験と空想上の経験を混ぜ合わせて、まったく別の結論を生むような芸当をしばしば見せてくれるのである。
ファンタジーはかりでなく、一般に物語を組み立てるときは、当人が意識しているといないとにかかわらず、こうした天然コンピューターを多少とも働かしていない人はないだろう。このことを、ある高名な作家は「小説を書くとき、私は神様と一緒に仕事をしているような気がする」(ファンタジーの世界 (講談社現代新書 517) 、四四~四五頁)
小説を書くとき、どうすれば「天然コンピューター」が奇跡を起こしてくれるのだろう?次の引用では、その答えが示唆されている。
「ただし、心のコンピューターを使いこなすのは、それほビ楽ではない。本物のコンピューターを使うのに、専門の知識や技術を必要とするのと似ているが、こちらは別に専門知識がいるわけではなく、たった一つの方法しかない。体がへばるほど一心に努力を続けて妥協せずに苦しみながら書くことである。その苦しみが深ければ深いほど、心のコンピューターは必要な呼び出し信号として受けとってくれる。つまり苦しむということは、その物語にてきとうな条件を、パンチカードにしてコンピューターへ送りこんでいるようなものなのだ。するとまったく本人でさえ思いもかけない最高の答を、それまでに蓄えてあった虚実ないまぜの情報を融合させて送りつけてよこすのである。
なぜそうなるのかというと、文章を綴っているからである。文章を書く、という作業は、思考そのものを記録していることで、よりよい文章を書こうとする努力は、よりよい思考を追い求めていく烈しい精神集中作業でもある。『書くことは考えること』といわれるのはその意味で真実だが、私としてはまだものたりない。『書かなけれは本当に考えていることにはならない』くらいなものだ」(前掲書、四四~四五頁)
特に解説は必要ないだろう。「体がへばるほど一心に努力を続けて妥協せずに苦しみながら書くことである」。「よりよい文章を書こうとする努力は、よりよい思考を追い求めていく烈しい精神集中作業でもある」。どんなジャンルであれ小説を書くことは自分との苦しい闘いである。
てっとり早く書いたものは薄っぺらい内容しかない。運よく売れたとしても、それは泡のようにすぐに消えていくものでしかない。それが書き手の最終目的であるなら話は別だが...。
とくかく文章を書こう。それを続けていくことが、必ず書き手自身の成長につながり、最終的にはいい作品につながるのである。