山本周五郎に学ぶ 2

   最大多数に理解されるように書く

 ここ十年間のテレビ番組を見ていると、その場しのぎの他愛もない番組が多い。視聴率を稼ぐには、刺激が多いか単純に笑える番組のほうがいいという考えなのだろう。

 出版業界も昔から似たような問題を抱えている。人間関係の悩み、人生の問題といった人間の普遍的なテーマをまじめに扱う本よりも、その場しのぎの軽い読み物や刺激的な本のほうが売れる。出版社の多くはこぞってそういう類の本に重点を移してきた。やがて過当競争になり、そういう本でも売上が悪くなっていくのだが、依然として硬い本は売れない。結局、「いい本が売れない」という議論になる。

 これはいつもの「卵が先か、ニワトリが先か」の問題になる。「読者のレベルが低い」から「いい本が売れない」という声がある。一方で、「本を出す側=著者と出版社の姿勢が悪い」から「いい本が売れない」という声もある。はたまた「流通(取次)システムが悪い」という声もある(このあたりの問題を深く追及したノンフィクションに『だれが「本」を殺すのか』(佐野眞一著、プレジデント社)があるので、興味のある方は読んでいただきたい)。

 私もずっとこの問題を考えてきた。いくらその場かぎりの楽しさを求めたからといって、人間であるかぎり「どう生きるか」、「何が人間の幸福か」、「悩みとどう向かい合うべきか」といった人間にまつわる問題から逃れることはできない。そういう問題を扱う書物は、世の中にどうしても必要なはずである。

 なぜそういう普遍的なテーマを扱う文学書、哲学書、ノンフィクションなどが売れないのか?私は山本周五郎の次の文章を読んだときに、ほっぺたを打たれて目を覚まさせられる思いがした。この本は周五郎が数十年も前に記したものなのである。彼の感性の鋭さを示す一例である。

 ここに「卵が先か、ニワトリが先か」の議論に対するはっきりした答えが書いてある。

『日本の読者の多くは知的水準が低い、という言葉は、この対談でいわれているばかりでなく従来の作者、批評家、出版経営者たちのきまり文句である。だがこれはまったく逆の論だと思う。よその国にも知的水準の高い読者ばかりはいない。低俗卑せんに好奇心をひかれるのは人間共通の弱点でしょう。同時に人間は「良くなろう」とする本能もある。

 よその国では第一級の作家のものが、最も多数の読者に読まれる。というのは、読者の知的水準が高いためではなく、第一級の才能ある作家が、最大多数に読まれるための努力をするからでしょう。広範囲の読者を対象とすれば、叙述や描写は独りよがりでは済まされない、そこには相当な努力が入用になってくる。--しかるにわが国では第一級の作者たちは、「寧ろ大衆に読まれることを恥じ」ているではないですか。第一級の作者たちは自ら努力することをせず、多数の読者を「知的水準が低い」とみなして、専ら知的特権階級のためサービスしているというのが実情である。と失言しても非礼ではないと思うのである。

 奇天烈な筋立てや、ハラハラドキドキ専門でなくとも、面白く良い小説を書く才能のある作者たら、大ざっぱにいって純文学作者たらが、最大多数のために理解され易いように書くこと、そのための努力を惜しまないで欲しい』(『山本周五郎全エッセイ集―定本 (1970年) 』、中央大学出版部刊、「大衆文学芸術論」、一〇ページ)

 「いい本が売れない」というが、それは根本的に著者と出版社の努力不足に原因がある。旧態依然とした手法で本を書き発行していないだろうか。今目の前にいる読者の生き方・考え方に合わせた本作りをしているだろうか。そういうことを考え直す必要がある。

 山本周五郎が書いているように、硬いテーマの本であっても、多数の読者にわかってもらえる努力をした本は売れている。そういう例は過去にたくさん出ている。マスコミでよく「若い世代の活字離れ」が騒がれているが、私はそれを信じない。子供たちは、周囲の提供の仕方しだいですぐに本が好きになるものだ。読んでくれないならば、朗読会に参加させればいい。きっかけや手段が重要なのである。

 書き手としては、「自分の本の内容は少数の読者しか理解できない」と自己満足に浸るのではなく、多数の読者にわかってもらえる努力をするべきである。展開の方法、文体、主人公や状況設定など考えるべき要素はたくさんある。それについては本稿の主旨ではないので別の機会に述べたいと思う。