佐伯泰秀に学ぶ

  書くことが楽しみという生活 

 数年ほど前、ある古本屋に立ち寄ったときのこと。一人の老婦人が入ってきて、店主にこう言った。

 「最近おもしろい小説は、佐伯泰秀だけねえ」

 その人は『酔いどれ小藤次留書』を五冊ほど買い込むと、さっさとその場を立ち去った。その頃、私は佐伯泰秀の本に興味はなかったのだが、この婦人の言葉を聞いて興味を持った。小説そのものよりも、なぜそれほど好まれるのか、ということに興味を持った。

 時代小説や歴史小説は、あまり女性に好まれない。過去、その壁を打ち破った作家は、藤沢周平、池波正太郎、司馬遼太郎だ。現在活躍中の作家では宮部みゆきとなる。佐伯泰秀もそれに加わったのである。

 佐伯の小説を読んでいくと、ストーリーの骨組みに共通のパターンが見える。その骨組みに、違った飾りを付けていくと、それが「酔いどれ小藤次」になり、「居眠り磐音江戸双紙 」になり、その他のヒーローになる。

 今回は小藤次と磐音に焦点を当てて考察してみたい。

 長編小説の基本である長期の戦いがベースにあり、その中でいくつもの事件と向かい合ったり、刺客と戦ったりしながら話が盛り上がる。

 そこにヒーローと周囲の人たちとの恋愛や人情が絡まり、花を添える。 これがまず時代小説の基本としてある。その上に、次の共通の要素が加わっている。

 その一、二人とも剣の達人である。

 小藤次は村上水軍流を受け継ぐ達人、磐音は直心影流尚武館の達人だ。典型的な時代小説ファンは、剣劇物いわゆるチャンバラをまず好む。このタイプは男性に多いが、この層のハートをつかむには、チャンバラは欠かせない。そのためにヒーローは剣もしくは武術の達人でなければならない。

 その二、二人とも大義の下で戦う

 赤目小藤次は、元藩士だったが殿の無念を晴らすため「御槍拝借」という行動に出て無念を晴らした。その行動を起こす前に藩を抜け、浪人となる。その後、主君のために命を懸けて戦う。

 坂崎磐音も藩家老の嫡男。藩の抗争に巻き込まれ藩を抜ける。その後は将軍世継ぎ・家基を側面から助けるために、身命をなげうって黒幕の田沼意次一味と戦う。

 その三、剣の勝負の前に名乗りがある。

 必ずと言っていいほど、水戸黄門ばりに「このお方がだれか知ってるのかい。御槍拝借の小藤次様だ。おまえたちが束になってもかないっこないぜ」とか、「尚武館道場の若先生、佐々木磐音様だ」といった名乗りが上げられる。そして敵がうろたえる。勝負には必ず勝つ。

 これは「水戸黄門」の最後で視聴者が「すかっとする」ように、読者がすかっとするための重要な要素である。

 その四.二人とも刺客を迎え撃つ

 小藤次も磐音も凄腕の剣客を刺客として迎え撃つ。勝負はいつも一瞬の差で勝つ。これが大きな見せ場となっている。

 これは古典的な時代小説ファンをつかむ上で重要な要素である。

 その五、二人とも長屋で暮らし、庶民生活に溶け込んでいる

 行動後、小藤次は長屋で暮らしながら研ぎ師として生計を立てる。

 磐音も長屋で暮らしながら鰻割きの仕事や用心棒をしながら生計を立てる。その縁から道場主の養子となる。

 二人ともこういう生活の中でたくさんの人と知り合い、仲良くなる。

 そうした周囲の人物が、ストーリーの中でいろいろな役割を与えられるようになり、色を添える。

 これは女性読者をつかむ上で重要な要素だ。

 その六、二人とも女性にもてる。

 小藤次は初老で容姿は醜い男で無口だが、心根がやさしいので女性にもてる。磐音は居眠り猫のようにぼーっとしているように見えるが、育ちがよく男前でやさしいから当然女性にもてる。

 これもストーリーに花を添える要素である。

 その七、話の展開が早い。これは飽きさせない要素である。

 以上をまとめると、チャンチャンバラバラの戦いあり、主従の忠節心あり、下町人情あり、急展開ありと、時代小説の「人気の素」がすべて入っているのである。これは重要な要素だ。

 そこへきて、文体はセリフが多い、一行の字数が少ない。情景描写は最低限に抑えている。つまり、ふだん小説を読まない人に読みやすい文体となっている。

 また、これは出版社の方針だと思うが、印字のフォントが通常より大きい。これも読みやすさをいっそう高めている。

 これもまた重要な要素である。

 私も佐伯泰秀の時代小説を読んで楽しんでいる一人である。約十年前、それまで書いていた国際推理小説が売れず、版元から最後通告を突きつけられ、やむなく時代小説を書き始めたという佐伯のプロフィールを読むと、心を動かされるものがある。後から考えると、その通告は悪魔の声ではなく、天使のささやきだったのである。

 プロフィールには驚くべきことも書いてある。だいたい一ヶ月に一冊のペースで書いているというのだ。これは驚異的なスピードである。短編ならいざ知らず、長編を完成までもっていくのは大変なことだ。ただし、情景描写がやや粗っぽくなってしまっている感は否めない。

 あるインタビューで本人がほかに特に趣味もなく、書くことが楽しみのような生活と語っているが、まさにそういう人でなければ書けない。

 以上から想像するに、佐伯泰秀も池波正太郎と同じく、読者を楽しませることに徹している作家なのだと思う。そこに徹するというのは、言うのは簡単だが、実行するのは生やさしいことではない。いろいろな見栄や欲望や変なプライドを捨て去った境地が必要だ。司馬遼太郎の言葉を借りると「無私の人」とならなければならない。

 佐伯泰秀という作家は、人間的にも興味が湧く存在である。いつかインタビューしてみたいと思う。