上ノ山 明彦

向田和子著 『向田邦子の青春』

 昭和56年(1981年)8月22日、突然の悲報が日本中をかけめぐった。作家の向田邦子を乗せた飛行機が台湾上空で墜落し、本人が亡くなったというのだ。脚本家として国民的人気を集め、作家としてもこれからの活躍が期待されている時、突然の逝去だった。前年に直木賞を受賞したばかりのできごとだった。昭和4年(1929年)生まれ。享年52歳。生涯独身だった。
 脚本家としての向田邦子が書いたテレビドラマは、私の小中高時代にはなくてはならないような存在だった。森繁久弥主演「だいこんの花」、森光子主演「時間ですよ」、小林亜星主演「寺内貫太郎一家」は、毎週欠かさず見ていた。私は当時「テレビッ子」だったのである。「テレビッ子」なんて、今は死語になってしまったが。
 私は情が濃すぎるホームドラマは、あまり好きではない。重たく感じるからだ。その点、向田邦子のドラマはどこかユーモアのセンスが高くて、押しつけがましいところがなかった。気負いがなかった。
 その理由が最近わかった。向田邦子の妹・向田和子が書いた『向田邦子の青春―写真とエッセイで綴る姉の素顔 (文春文庫) 』を読むと、彼女の生き方や感性が伝わってくる。
 戦争中は食べ物や着る物が不足していた。そんな中、両親のほか妹2人、弟1人という家族の長女という立場から、古着をほどいては妹たちのために夜を徹して服を縫った。何か食料を見つけては、家族の元に届けた。自分一人が東京に残り、妹たちが仙台に疎開していたときは、暇をみつけては訪ねていった。
 そうした家族への思いやりは、超多忙な編集記者、脚本家時代も続いた。 雑誌やテレビの仕事は昼も夜もない。企画がスタートすれば、寝る時間も足りなくなる。そんな中でも妹たちのためにいい生地を選んでは、徹夜で服を縫った。それもプロ顔負けのセンスの高いデザインと技術で。
 彼女自身、ファッションや食べ物などいわゆるオシャレに対する関心は非常に高かったようだ。貧困のどん底で食べるものも食べずに原稿を書くようなもの書きのイメージとは、正反対のところにいる。そういうところが彼女の書くドラマのセンスの良さにつながっていたのだろう。
 向田邦子が脚本家になったきっかけは、どうも成り行きまかせだったようだ。23歳のとき、雄鶏社(「おんどりしゃ」と読む)に入社し、雑誌「映画ストーリー」編集部に配属となった。
 雄鶏社といえば今は女性向けの本や雑誌を出している。ここがそんな映画雑誌を出していたこと自体、私は全然知らなかったが、当時は日本映画が全盛の頃で、人気雑誌だったようだ。
 向田邦子は雄鶏社に勤務するかたわら、頼まれてテレビやラジオの脚本を書くようになる。そこが出発点である。31歳で同社を退職しフリーになる。33歳でラジオの「森繁の重役読本」の台本、35歳でテレビの「七人の孫」の脚本を書き、人気脚本家として認められるようになった。42歳で「時間ですよ」、45歳で「寺内貫太郎一家」の脚本を執筆した。
 この頃書かれた彼女のエッセイにあるのだが、中年のおじさんに職業を聞かれ、脚本家と答えた。仕事の説明を聞いたおじさんいわく、あのドラマで森繁はいいこと言うよなあ。あんたも大変だ。あの人の言うことを書くんだから。どうもこのおじさんは、脚本家とは俳優の話を聞き、それを文章にまとめる仕事だと思っていたらしい。
 順風だった向田邦子にも転機が訪れる。46歳のとき、乳癌におかされ手術。そのときの輸血に問題があり肝炎を発病し、以降慢性的に体調が不良だったようだ。癌の再発と肝硬変への恐怖、死の覚悟。そこから何かが変わったようである。
 その後、49歳から次々にエッセイや小説を発表し、51歳で直木賞を受賞した。
 最近発行された『向田邦子の恋文 (新潮文庫) 』(向田和子著)によると、邦子には10年ほど交際した恋人がおり、相手は病気療養の末、自殺したらしい。彼女のエッセイを読むと、常にユーモアがあり、そういう悲しい話が全然出てこない。結局亡くなるまで、誰もそのことを知らなかったようだ。
 向田邦子は才能があって家族想いでオシャレで料理が上手で生活力があって心が強い、という理想的な女性像だが、誰にも苦しみを打ち明けることがなく、意外と孤独ではなかったか。心の底までさらけ出して泣いたり騒いだりする友達や家族が必要だったのではないか。なぜにそこまで強い人であろうとしたのか。向田邦子が最近また見直されている背景には、そういう彼女の生き方への共感や関心があるからだと思う。