室町時代の能役者である世阿弥が、長年もやもやとしていた私の疑問
に、明解に答えてくれた。その疑問というのは、芸術性に乏しいが大衆
に人気の作家が多数いる。反対に、芸術性にすぐれているが人気のない
作家が少なからずいる。大衆の人気も芸術性も兼ね備えている作家は、
数えるほどしかいない。この現実をどう受け止め、いかに自分が精進し
ていくべきか?
世阿弥は言う。「芸達者な人は、鑑賞眼がない人々の心に叶うことがむ
ずかしい。下手な人は鑑賞眼のある人々の目に止まることがない。
下手な人が鑑賞眼のある人の目に叶わないことに疑問はない。芸達者
な人が鑑賞眼のない人々の心を捉えることができないことについては、
目の肥えていない人々の鑑賞眼が足りないことが原因なのであるが、心
ある達人で何か工夫をしている役者ならば、鑑賞眼のない人々の目にも
面白いと見えるように能を演じるべきである。この工夫と芸を極めた
役者のことを、花を極めたと言うべきなのである」(現代語訳:上ノ山)
世阿弥の言葉から引き出される教訓は、玄人の評価が高いけれども素
人に人気のない作家は、もっと修行し工夫して素人にも面白いと思わせ
るような作品を書きなさい、ということである。
素人受けするが玄人には評価されていない作家については、いわずもが
な、ということになる。
世阿弥の言う「花」には、もっともっと深い意味がある。『風姿花伝』
を読んで、その意味を確かめていただきたい。
『風姿花伝 (岩波文庫)
』、世阿弥著
(2009.10.8)
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